[九世紀]

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延暦二十年(八〇一)二月二十四日、征夷大将軍坂上田村麻呂に節刀。
延暦二十年(八〇一)九月二十七日、坂上田村麻呂、蝦夷征討。
延暦二十年(八〇一)十月二十八日、坂上田村麻呂、節刀を進める。
延暦二十年(八〇一)十一月七日、坂上田村麻呂、蝦夷征討の功により授位。
延暦二十一年(八〇二)正月七日、征夷の霊験により、陸奥国三神に加階。
延暦二十一年(八〇二)正月八日、征夷の軍監以下に授勲。
延暦二十一年(八〇二)正月九日、坂上田村麻呂、胆沢城を造営。
延暦二十一年(八〇二)正月十一日、東国などの浪人四〇〇〇人を胆沢城に移配。
延暦二十一年(八〇二)正月十三日、越後国の米、佐渡国の塩を毎年、出羽国雄勝城に運ぶ。
延暦二十一年(八〇二)四月十五日、阿弖流為等、降伏。
延暦二十一年(八〇二)六月二十四日、渡嶋狄との私交易を禁止。
延暦二十一年(八〇二)七月十日、坂上田村麻呂、阿弖流為らをつれて入京。
延暦二十一年(八〇二)七月二十五日、蝦夷平定を賀する。
延暦二十一年(八〇二)八月十三日、阿弖流為らを処刑。
延暦二十二年(八〇三)二月十二日、越後国の米・塩、造志波城所に送る。
延暦二十二年(八〇三)三月六日、坂上田村麻呂、辞見す。
延暦二十三年(八〇四)正月十九日、坂東諸国らの糒を陸奥国中山柵に運ぶ。
延暦二十三年(八〇四)正月二十八日、坂上田村麻呂、征夷大将軍。副将軍・軍監らを任官。
延暦二十三年(八〇四)十一月二十二日、秋田城を廃止。
大同三年(八〇八)七月四日、鎮守将軍百済王教俊を叱責。
弘仁元年(八一〇)十月二十七日、渡嶋狄、陸奥国気仙郡に来着。
弘仁二年(八一一)三月二十日、文室綿麻呂ら、爾薩体・幣伊進撃を奏上。
弘仁二年(八一一)四月四日、陸奥国人に授位。
弘仁二年(八一一)四月十七日、文室綿麻呂、征夷将軍。また副将軍任官。
弘仁二年(八一一)四月十九日、征夷将軍に、夷狄征討を命令。
弘仁二年(八一一)五月十日、征夷将軍に俘囚綏撫の勅。
弘仁二年(八一一)五月十九日、征夷将軍に、今年は準備にあて、来年六月の征討を命令。
弘仁二年(八一一)五月二十三日、坂上田村麻呂薨ずる。毘沙門の化身と讃えられる。
弘仁二年(八一一)七月三日、出羽国鎮兵に復三年。
弘仁二年(八一一)七月十四日、幣伊村征討につき、慎重準備を指示。
弘仁二年(八一一)七月二十九日、出羽国、夷をもって夷を征すの策をとる。
弘仁二年(八一一)十月四日、陸奥国軍士を増援。
弘仁二年(八一一)十月十三日、文室綿麻呂の戦果を知る。捕虜の京進を命令。
弘仁二年(八一一)十二月十三日、文室綿麻呂等に授位。
弘仁二年(八一一)閏十二月十一日、文室綿麻呂、戦後処理を奏上。
弘仁二年(八一一)閏十二月十九日、出羽国、復三年。
弘仁三年(八一二)正月二十六日、夷俘ら入京。
弘仁三年(八一二)二月二日、征夷軍士の調庸免除。
弘仁三年(八一二)六月二日、夷俘教喩のため、夷俘の中より適任者を選ぶ。
弘仁四年(八一三)五月三十日、文室綿麻呂、征夷将軍。
弘仁四年(八一三)十一月二十一日、夷俘の撫慰を指示。
弘仁五年(八一四)正月十九日、陸奥国人に授位。
弘仁五年(八一四)十一月十七日、津軽狄俘らに備え、胆沢・徳丹城に糒・塩を備える。
弘仁五年(八一四)十二月一日、「夷俘」の呼称を禁ず。
弘仁六年(八一五)正月十日、空海、任陸奥守小野篁に歌を贈る。
弘仁六年(八一五)三月二十日、富豪層の馬の交易を禁止。
弘仁八年(八一七)七月五日、陸奥国。俘囚の帰降を報告。
弘仁八年(八一七)九月二十日、反乱の俘囚を拘束。
弘仁十一年(八二〇)四月二十七日、唐人、出羽国漂着。
天長元年(八二四)五月十一日、新羅人五四人を陸奥国に安置。
承和二年(八三五)六月二十七日、俘囚に授位。
承和二年(八三五)十二月四日、夷俘の越境・入京を制止。
承和三年(八三六)三月二十五日、陸奥俘囚に授位。
承和四年(八三七)四月二十一日、陸奥出羽按察使、百姓騒擾を報告。
承和五年(八三八)正月二十六日、陸奥国人に授位。
承和五年(八三八)三月十九日、陸奥国夷俘に授位。
承和五年(八三八)十一月十三日、征戦勲功により授位。
承和六年(八三九)四月二十六日、陸奥国に災星、地震。百姓動揺により、胆沢・多賀城間を警備。
承和六年(八三九)十月十七日、出羽国田川郡の隕石を報告。また陸奥・出羽国などに、機変ある時の修法奉幣を命じる。
承和七年(八四〇)三月十二日、陸奥国人らに授位。
承和七年(八四〇)三月、陸奥国奥地の民、庚申を称して騒動。陸奥国司ら援軍を要請。
承和十年(八四三)四月二十八日、他国に浮浪する陸奥・出羽国の百姓を本郷に送還。
仁寿四年(八五四)四月二十八日、陸奥国、凶作により国内動揺。兵士一〇〇〇人を配し備える。
斉衡二年(八五五)正月十五日、安倍安仁、陸奥出羽按察使兼任。鎮守将軍文室道世、下野権介兼任。陸奥国奥地の俘囚、内紛、警備に兵士差発。同月二十七日、さらに援兵を請う。また陸奥国に賑給。
貞観三年(八六一)三月二十五日、陸奥国より馬を出すことを禁止。
貞観十二年(八七〇)二月二十日、大宰管内の新羅人、陸奥国への移配を計画。
貞観十二年(八七〇)三月二十九日、羊革甲を小野春風に、牛革甲を小野春枝に給わる。
貞観十二年(八七〇)九月十五日、新羅人を陸奥国等に移配。
貞観十七年(八七五)五月十五日、帰降の狄徒の禄法を定める。
貞観十七年(八七五)十一月十六日、出羽国、渡嶋狄の反乱を報告。
元慶二年(八七八)三月二十九日、出羽守、今月十五日、元慶の乱勃発を報告。
元慶二年(八七八)四月四日、出羽守、秋田城の焼失を報告。
元慶二年(八七八)四月二十八日、反乱収まらず、上野・下野・陸奥諸国に援兵派遣を命じる。
元慶二年(八七八)五月四日、良吏藤原保則、出羽権守兼任。現地へ派遣。
元慶二年(八七八)五月五日、陸奥国、兵二〇〇〇人を出羽国へ派遣。
元慶二年(八七八)六月七日、出羽守、四月の戦況を報告。この日、秋田城にて再び大敗。
元慶二年(八七八)六月八日、小野春風を鎮守将軍として、秋田城を救援。陸奥出羽按察使源多、辞意。
元慶二年(八七八)六月十六日、出羽守、官軍兵士の多数逃亡を報告。救援軍を派遣。
元慶二年(八七八)六月二十一日、東海・東山道諸国より精鋭を募る。また出羽国に襖を送る。
元慶二年(八七八)六月二十八日、出羽国で降賊法を修す。
元慶二年(八七八)七月十日、藤原保則、作戦を検討。夷をもって夷を征する策をとる。津軽夷俘の動向を懸念。
元慶二年(八七八)八月四日、天皇、征討軍を督励。出羽国大物忌・月山・袁物忌神の勲位を進める。綵帛・米を出羽国に送る。
元慶二年(八七八)九月四日、出羽国司飛駅奏言。
元慶二年(八七八)九月五日、賊気既に衰える。速やかな作戦遂行を命じる。
元慶二年(八七八)十月十二日、この間、賊の投降相次ぐことを報告。
元慶二年(八七八)十月十三日、投降の賊について指示。
元慶三年(八七九)正月十一日、出羽国、凶賊の投降と、渡嶋夷・津軽俘囚の慕化を報告。
元慶三年(八七九)正月十三日、出羽国に勅符。出羽国俘囚に授位。
元慶三年(八七九)三月二日、藤原保則、賊徒の投降を容れ、作戦終了を進言。
元慶三年(八七九)六月二十六日、軍の解散、武器の収納を報告。
元慶四年(八八〇)二月十七日、帰降の賊の武具・位記を没収。
元慶四年(八八〇)二月二十五日、出羽国山北三郡に復二年。
元慶四年(八八〇)四月、藤原保則、鎮撫を終えて帰京。
元慶五年(八八一)五月三日、陸奥蝦夷通訳に授位。
元慶五年(八八一)十一月十七日、出羽国人に叙位。
仁和三年(八八七)五月二十日、出羽守、国府の最上郡移転を申請。太政官、これを認めず、旧国府周辺への移転を命ず。
寛平五年(八九三)閏五月十五日、渡嶋狄と奥地俘囚と戦闘。