一 はじめに

427 ~ 430 / 681ページ
 本章は、弘前市内とその周辺にある主な中世城館跡を取り上げ、遺構の現状と過去、及び構造や機能について、解説を行うものである。
 現在、弘前市内には四〇を超える中世城館跡が確認されている。その中には、堀越城跡のように国史跡に指定され(弘前城跡と合わせて「津軽氏城跡」)、公有地化も進められて保存措置が講じられているものもあるが、大部分は近年の開発の中で破壊され、中には消滅の危機に瀕しているものさえある。
 文禄三年(一五九四)、津軽為信は、それまでの本拠・大浦城から堀越城に移り、ここを津軽領国支配の拠点として城下町を営んだ。さらに、為信の意志を継いだ二代信枚は、慶長十五年(一六一〇)、高岡の地に新城築城の事業を起こし、翌年、堀越から移転する(寛永五年・一六二八、高岡は弘前と改称される)。
 城下町弘前の歴史はここに始まる。だが、それ以前、弘前の地が津軽の歴史の表舞台にならなかったわけではない。十三世紀、鎌倉の北条氏は、弘前に隣接する藤崎に壮大な禅寺「護国寺」を営み、津軽得宗領支配の拠点としたし(『津軽一統志』)、同じころ、十三湊に本拠を置く安藤氏は、岩木川河川交通の要地・尻引郷(市内三世寺(さんぜじ))を活動の一つの拠点としていた(「新渡戸文書」「米良文書」)。十四世紀半ばの南北朝動乱時代、弘前周辺では南北両党の激戦が繰り広げられ、大光寺楯・石川楯・船水楯・新里楯・堀越楯・小栗山楯など、数多くの城郭が構えられたことが文書に見える(「南部家文書」)。降って天文二年(一五三三)、三戸の南部氏は市内石川に石川城(石川大仏ケ鼻城)を営み、一族の重鎮南部高信を配置して、津軽地方の領国化を推進する(「前代歴譜」)。このように中世においても、弘前周辺の地域は、津軽地方、さらには日本の北方世界の中で、重要な役割を果たした場所だったのである。
 しかしながら、こうした中世の弘前地方の状況を具体的に知りうる文書・記録は少なく、特に室町・戦国時代については皆無に等しい。文献史料のみでは、おおまかな政治史をあとづけるのがやっとで、在地社会の具体相を探ることは困難なのである。それだけに、現在も各地に残る中世の城館跡は、板碑・五輪塔などの金石文資料や、考古学的な出土遺物・遺跡とともに、文献からは知ることのできない在地社会の実像を明らかにするための貴重な手がかりとなる。
 実は、これら中世の城館跡については、藩政時代から関心が寄せられ、所在地・城主及び興廃について多くの研究がなされてきた。その一つの成果が、小友叔雄著『津軽封内城趾考』(一九四二年)であろう。だが、かつての中世城館研究の大部分は、いわば〝城主の歴史〟の研究であって、城郭自体の構造的な特徴や、城館が営まれたことの社会・経済・文化的意義の考察は、ほとんど行われなかったといってよい。そうしたなかで、中村良之進や沼舘愛三は、この地域の城郭遺構を実測し、図面化して、城郭の構造を分析する作業を行った(中村良之進『青森県南津軽郡石川町郷土史』『青森県中津軽郡藤代村郷土史』『青森県中津軽郡船沢村郷土史』など、沼舘愛三『津軽諸城の研究』)。両氏の研究は、今日では不十分なところもあるが、先駆的意味を持つ優れたものであり、私たちの貴重な財産となっている。
 しかも、ここ十数年来の中世城館研究の進歩は、文字どおりめざましいものがある。そこでは、地表からの丹念な表面観察に過去の記録・地図・写真も加えて、堀・土塁・虎口(こぐち)(城の出入口)・曲輪(くるわ)(「郭」とも書く。堀・土塁・切岸などによって仕切られた一区画)など城の防御遺構を把握。それをもとに城郭の詳細な平面図=「縄張り図」を作成し、この図から城の構造や機能を読み取るという作業が行われるようになった。そして、この方法によって、城郭の様々なタイプや、領主の権力構造を究明することも、可能になったのである。さらには、地域内の城館相互の関係をとらえ、戦国大名の領国支配の在り方を究明する仕事や、「戦国城下町」復元の研究などが急速に進んでいる。最近の市町村史では、こうした視点から『資料編』に「中世城館編」を置くことが多く、独自に『中世城館編』を刊行しているところも少なくない。
 本章は、以上述べた近年の研究状況を踏まえて構想された。そのため調査に当たっては、基本的には右に紹介した中世城館調査の手法を用いている。もちろん、この方法では地中に埋もれた遺構の発見は不可能で、最終的には考古学的な調査・研究との協力が必要だが、発掘調査が行われていない場合でも、可能な限り確かな仮説は示し得るであろう。しかも、近年の開発の進行による中世城館遺跡の破壊は、弘前市周辺においても例外ではない。中世の城館跡を調査・記録し、歴史資料として提供することは、この観点からも、今日、急務となっている。