(1)新和・高杉地区
①笹館(笹舘字市原)、②小友館(小友字宇田野)、③種市館(種市)、④高杉館(天崎館、高杉字尾上山)、⑤笹森館(篠森館・独狐(とっこ)館、独狐字笹元)。
(2)船沢地区
⑥中別所館(城館(しろだて)・隅館・二ツ館・荼毘館の総称、中別所字葛野・宮舘字房崎)、⑦玄蕃館(別所館、中別所字雷(いかずち))、⑧宮館(宮舘字宮舘沢)、⑨折笠(おりかさ)館(折笠字宮川)、⑩志戸野沢館(四戸野沢館、富栄(とみさかえ)字笹崎)、⑪蒔苗館(蒔苗字油伝(あぶらでん))。
(3)藤代地区
⑫三世寺館(三世寺字色吉)、⑬中崎館(中崎字川原田)、⑭町田館(山吹の平館、町田字山吹)、⑮船水館(船水字横船)、⑯藤代館(藤代字川面(かわめん))。
(4)豊田地区
⑰境関館(日野間館、境関字富岳)、⑱福村古館(福村館、福村字俵元)、⑲福村城(福村字新館添)。
(5)市街地区
⑳和徳城(和徳町)、21鷹ヶ岡城(のちの弘前城、下白銀町)、22出間(でま)館(銅屋町、現在の最勝院境内)。
(6)清水地区
23青柳館(湯口館、下湯口字青柳)、24小沢館(小沢字広野)、25坂元館(坂元、Bのみ)。
(7)千年・石川・堀越地区
26大和沢館(大麻館、一野渡字野尻)、27一野渡館(一野渡字西平山、Bのみ)、28小栗山館(小栗山字沢部)、29大沢館(大沢字村元、Bのみ)、30堂ヶ平館(大沢字堂ヶ平、Bのみ)、31石川城(石川大仏ケ鼻城・石川十三館、石川字大仏・平山・寺山・小山田)、32堀越城(堀越字川合・柏田)。
(8)乳井地区
33乳井茶臼館(乳井字茶臼館・岩ノ上)、34乳井古館(ミヅノエ館、乳井字平山)、35乳井城(乳井新館・大隅館、一説に乳井大館、薬師堂字舘ノ平)。
(9)東目屋地区
36高野(こうや)館(国吉字耕田)、37坂本館(目屋川新館・古館、館後(たてうしろ)字新田)、38古屋敷(国吉字村元、Aのみ)、39国吉館(山伏館、国吉字坂本)、40黒土館(黒土、A・Bで比定地が異なる)、41桜庭館(桜庭、A・Bで比定地が異なる)、42吉川館(吉川字山上、Bのみ)、43平山館(平山字平山、Bのみ)、44中畑館(中畑、Bのみ)、45番館(館城、番館字長田(おさだ))。
このほか遺構未確認の城跡として、46高長根山城(A)、47鬼沢館(B)、48撫牛子(ないじょうし)館(A・B)、49下和徳館(B)、50取上館(B)、の五か所が挙げられている。
もちろん、弘前の中世史に密接なかかわりを持つ城館は、以上にとどまらない。市域外であっても、岩木町の大浦城跡、平賀町の大光寺城跡、藤崎町の藤崎城跡など、この地方の歴史に大きな意味を持った城館は少なくない。しかし、限られた時間の中で、これら五〇を超える城館跡を調査することは不可能であった。そこで本章では、弘前市地域の中世史を考察する上で最低限必要な城館と、中世城郭の一つのタイプを示す城館跡を、市内・市外を問わずいくつか選び、それを詳しく取り上げて、資料として提供することにした。
こうした基準から、本章で取り上げた中世城館跡は次の五つである。
① 石川城跡(弘前市石川)
② 大浦城跡(中津軽郡岩木町賀田(よした)・五代(ごだい))
③ 堀越城跡(弘前市堀越)
④ 国吉館・坂本館跡(弘前市国吉・館後)と東目屋地区の城館群
⑤ 乳井茶臼館跡(弘前市乳井)と周辺の城館群
①の石川城(石川大仏ケ鼻城)は、南北朝時代初期、北条氏与党勢力が建武政府に対する反乱を起こした時の拠点となり、戦国時代には南部高信が入部して、南部氏の津軽支配の本拠となった城郭である。また元亀二年(一五七一)、大浦為信がこの城を急襲、陥落させて、独立の第一歩をしるしたことでも知られる。しかも「石川十三館」と総称される多くの曲輪を持ち、津軽ではおそらく最大規模の中世城館であろう。②の大浦城は、大浦為信が津軽統一をなし遂げるまで本拠とした大浦氏四代(盛信・政信・為則・為信)の居城。そして、③の堀越城は、為信の津軽統一後、二代信枚が高岡(弘前)城に移るまでの十七年間、津軽氏の本拠だった所で、城下町弘前の前身としての性格を持つ。これらはいずれも、南部氏・大浦(津軽)氏が領国支配の拠点としたものであり、居住・軍事機能を合わせ持った政庁型の城館といえる。それゆえまた、これら三つの事例の比較を通して、戦国時代~近世初めの津軽地方で、政庁型の城館がいかなる発達を遂げたかも知ることができると思う。
一方、④の国吉館は、小規模かつ簡単な構造だが、遺構をよく残しており、中小領主居館の典型的な例として選んだ。しかも、近隣する坂本館など、東目屋の他の城館の在り方を通じ、地域内での城館相互の関係を考えることも可能である。最後の⑤乳井茶臼館は、ほとんど居住機能がなく、軍事機能中心の砦としての特徴を持つ。しかもこの乳井茶臼館は、天正七年(一五七九)、娘婿の波岡御所北畠顕村を滅ぼされた脇本・檜山城主下国安東愛季の軍勢が、津軽に侵攻して大浦為信と激戦を展開した際に、檜山勢が一時立てこもった要塞と伝えられる歴史を持っている。そこで軍事機能中心の城館の例として、この館を取り上げ、合わせて乳井地区全体の城館分布と、この地区の特質についても追究した。
もとより、以上の選択に対しては、恣意的であるとの批判を受けるかもしれない。しかし、この方法によって、重要な城跡ながらこれまで研究の少なかった石川城跡や、遺構自体が消滅の危機にさらされている大浦城跡について、詳細な記録を残すことができた。それによって、今後の研究にも貢献し得ると考えるものである。それゆえ、大部分の城館跡については地図に位置を示すだけで終わらざるをえなかったが(図1及び付図を参照)、それらについては、将来の調査・研究の課題としたい。
図1 弘前市内の中世城館跡
最後に、掲載図面について説明する。「縄張り図」の作成に当たっては、城郭が機能していたときの姿がよく分かるように、過去の記録・地図(分限図)・航空写真なども参考にして、可能な限りの推定復元を行った。もちろん、その場合でも判断が微妙なものがあり、それらは点線で記載している。また、この縄張り図で示したのは、城館の最終段階の姿であり、城館を建設して以後、様々な変遷をたどっていること、そうした時期の姿はこの図面に表れていないことを、あらかじめ断っておきたい。
なお城館調査にあたっては市村高男氏(中央学院大学助教授)のご教示を得た。