一 石川城の立地と現状

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 石川城跡は、弘前市石川字大仏・平山・寺山・小山田、石川集落の南の大仏ケ鼻丘陵とその北西に続く台地上にある。この地点は、尾開山(おびらきやま)から北に伸びる丘陵が津軽平野の南端に接する場所であり、広大な津軽平野が終わって、平川河谷へと変わる地点、つまり津軽平野の南の入口・境界に位置している。城内の最高所は南東端の大仏ケ鼻丘陵で、標高は九七・九メートル。その西側、通称寺屋敷地区もほぼ同じ高さの丘陵をなし、大仏ケ鼻の南側は比高差四〇メートルの断崖となって切れ落ちている。北西に続く台地は標高六〇メートルほどの平坦地だが、ここでも低地との比高差は一〇メートル近くに達する。城域全体の規模は東西約八五〇メートル、南北約五五〇メートルの、大規模な城跡である。

乳井茶臼館跡から見た石川城跡


図2 石川城跡位置図

 現在、石川城跡のある台地は、東側を平川に接するだけだが、大仏ケ鼻南側の断崖の下を「大淵」、北西台地の北側と石川集落との間の低地が「地蔵川原」と呼ばれ、地蔵川原の北西には「中川原」「川原田」の地名もある。耕地整理以前の航空写真を見ると、地蔵川原から中川原へと続く明瞭な旧河道の跡が読み取れるから、中世にはここを平川が流れ、現在よりはるかに要害の地となっていたであろう。現在、石川城跡は、南東端の大仏ケ鼻丘陵の部分が大仏公園として整備され、その西の丘陵の一部が墓地となっているほかは、大部分がリンゴ園として利用されている。
 また、この石川城跡は、一般に大仏ケ鼻の地名を取って「石川大仏ケ鼻城」と呼ばれ、そのため、この部分だけが城域と考えられがちである。しかし、実は、大仏ケ鼻北西に続く台地上には一三の曲輪(郭)が並び、「石川十三館」と総称されるような巨大な城郭なのであって、これら全体を含めて城の構造を考えなければならない。十三館には諸説があるが、一般には、1大仏ケ鼻城、2岡館、3猿楽館、4月館(2~4を総称して次兵衛殿館ともいう)、5坊館、6寺館、7高田館(平山館)、8内館(八幡館・次五兵衛殿館)、9茂兵衛殿館、10孫兵衛殿館(西町館)、11寺山館、12小山館、13新館、の十三の館(曲輪)を指す(図5)。このうち、12小山館は10孫兵衛殿館(西町館)の向いの台地、現在の毘沙門宮の場所にあったと伝えられるが、明確な遺構はない。また13新館は、石川字小山田、JR奥羽本線石川駅南側の台地に位置する1~11の曲輪群とは別個の独立した城郭であり(これを「野崎館」として紹介している文献もあるが、天和四年上石川村書上絵図には「新館」と記載されている)、いちおう「石川城跡」からは除外して考た方がよいであろう。

図5 石川城縄張り推定復元図


石川十三館のうち内館・寺山館地区を南より遠望