(1)南北朝時代の「石川楯」

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 石川城は、最初に「石川楯」の名で文献に登場する。その時期は建武元年(一三三四)。前年の元弘三年、津軽地方で北条氏与党の建武政府に対する反乱が勃発し、出羽国小鹿島・秋田方面の動きと合流して、大規模な反乱に発展したときである。
 この津軽反乱では、はじめに元弘三年末から四年初めにかけ、「大光寺楯」を中心に合戦が行われ、大光寺楯が元弘四年正月に陥落すると、反乱勢は「石川楯」に立てこもり抗戦を続けた(元弘四年正月十日曽我光高代沙弥道為軍忠状案、建武元年六月日曽我光高申状・曽我光高軍忠状、同年六月十二日北畠顕家御教書、「南部家文書」)。石川の地は、この時代、津軽平賀郡岩楯郷に属していたと思われ、給主曽我光高は、国府=建武政府側について奮戦したが、もと得宗被官で平賀郡に勢力を持つ津軽曽我氏の一族は、工藤・小河氏などと同様、一族が二つに分裂して争う。曽我光高軍忠状は、光高が石川合戦で討ち取った者として「曽我彦三郎・曽我与次若党」以下の名を、また建武元年十二月十四日の津軽降人交名注進状(「南部家文書」)も、曽我貞光・重経・道性ら、曽我一族の有力者の名を記している(曽我道性は弘前長勝寺の嘉元鐘に名が記される「沙彌道性」と見られる)。彼ら曽我一族が大光寺・石川の戦いで北条勢の主力だったのであろう。石川楯は五月に陥落したらしく、曽我光高軍忠状に「五月廿一日石河合戦事、分取頭 ……」、建武元年六月十二日北畠顕家御教書に「津軽事、石川楯無為責落候、目出候」と見える。しかし、名越時如・安達高景を主将とする北条勢は、奥地の持寄(もちよせ)城(中津軽郡相馬村)に立てこもって抵抗を続け、国司北畠顕家は多数の軍勢を派遣。十一月ようやく持寄城を攻略した。
 この「石川楯」がどこにあり、いかなる規模と性格の施設だったかは、よく分からない。しかし、「楯」がこの時代、堀や柵を巡らした軍事施設を指す言葉であり、おそらく「石川楯」は、臨時に構えられた城塞だったと思われること、石川周辺でそうした施設を造る場所としてふさわしいのは、大仏ケ鼻丘陵以外にないことを考えれば、現在の大仏公園=大仏ケ鼻城跡の場所こそ、第一の候補地として挙げてよいと思う。沼舘愛三は、「石川楯」を石川十三館の「内館」を中心とする地域に比定しているが(『津軽諸城の研究』)この地は大仏ケ鼻丘陵の直下に見渡される台地で、軍事施設を構える場所としてはふさわしくない。ただ、どちらの場合でも、当時の遺構は戦国時代の石川城の構築によって破壊されているはずで、地表からその跡を読み取ることは不可能である。