(2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」

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 「前代歴譜」『津軽一統志』『館越日記(『永禄日記』一本)』など、近世に書かれた記録によれば、天文二年(一五三三)ないし文亀二年(一五〇二)、三戸南部安信は、藤崎城主安東教季・大光寺城主葛西頼清を討って津軽を平定し、石川大淵岬(大仏ケ鼻)に築城。この城に「津軽郡代」として弟高信(子ともいう)を置き、津軽六郡を支配させたという。これがいわゆる「石川大仏ケ鼻城」で、ここに石川城は、南部氏の津軽支配の拠点として再び姿を現わす。右の記録は津軽側のものだが、南部高信の津軽平定と石川居城は、南部側の記録でも元亀三年(一五七二)の事件として記されており、基本的に事実と見てよいであろう。この「大仏ケ鼻城」構築までの間、かつての「石川楯」の地がどのように使われたかは、記録がなく分からない。しかし、石川大仏ケ鼻は津軽平野の南の入口をなす戦略的要地に位置し、要害の地でもあるから、高信の入部以前にもなんらかの城郭施設があったと考えられる。
 このときの、南部安信・高信による津軽平定と石川居城は、南部氏の領国支配強化政策の中で行われたことであった。
 南部氏の津軽への本格的進出は、十五世紀に始まる。永享四年(一四三二)、三戸の南部氏は十三湊の下国安藤氏を攻めて、蝦夷島(北海道)へ敗走させ、その後の数度の合戦を経て、十五世紀の後半には、下国安藤本宗家の勢力を津軽から一掃することに成功した。この過程で南部氏は、延徳三年(一四九一)、一族の南部光信(津軽氏の祖先)を西浜種里城に、明応七年(一四九八)には、南部弾正康時を外が浜堤浦に入部させ、さらに文亀二年(一五〇二)には大浦城を築いて、南部光信の子盛信を置いた(「前代歴譜」)。
 こうして南部氏の勢力は大きく津軽に及ぶようになったが、光信の子、盛信が「大浦屋形」と呼ばれ、「大名」として半ば独立的な活動を展開したように、彼らはいわば「目下の同盟者」の地位にあって、本宗家=三戸家の統制は弱いものであった。
 こうした領国支配の未熟さを克服し、津軽・鹿角地方に対する支配の強化を目的に、この地に送り込まれたのが「石川殿」南部高信であった。この高信の活躍もあって、三戸南部氏は安信の子晴政の代に、戦国大名として大きく発展する。したがって、この時代の石川城は、単なる軍事要塞としてでなく、南部氏の津軽支配「政庁」としての機能を有していたに違いない。
 しかし、元亀二年(一五七一)五月、大浦城主大浦為信は謀略をもって石川城を急襲。一気に陥落させ、南部高信を自害させて、独立への第一歩を踏み出した(『永禄日記』『封内事実秘苑』『津軽一統志』)。これは近世の津軽側の記録が伝える内容で、南部側の記録では、高信は天正九年(一五八一)に死去したことになっているが、その後の津軽の動乱、為信の行動の経過から見て、事実と見なしてよいであろう。
 石川落城に対して、南部氏は早速軍勢を大鰐・宿川原に出陣させ、その後もしばしば軍勢を送った。「南部家文書」の年欠三月二十四日付南慶儀書状写には、「津軽郡相破」れ、「自大浦大わに(大鰐)被攻候而、下館打破候」たが、「日暮候而、内城相続」いた、と記されている。また天正七年(一五七九)には、脇本・檜山城主下国安東愛季が、波岡回復のため津軽に侵攻(愛季は波岡御所顕村の岳父)、石川城東方の六羽川(ろっぱがわ)で激戦を展開する。このように石川落城後も、津軽平野の関門に当たる石川・大鰐一帯の地は軍事的緊張が続いたため、為信は、戦略的要地である石川城を重視して、重臣板垣兵部を城代に置きこの城を守らせた。したがって、今日残る石川城の遺構には、板垣兵部時代のものも加わっているはずである。
 また、石川城跡の南、尾開山東面の尾根には、鉢巻山館・鶉長根館などの城塞群が、大鰐から碇ヶ関にかけての平川河谷にも、元長峰館・唐牛(かろうじ)城などの城郭が連なっている。これらの城館も単独ではなく、南部高信時代の三戸との「繋(つな)ぎの城」、あるいは板垣兵部時代の石川城防衛の砦として、検討する必要があろう。
 その後、石川城は板垣兵部が城代のまま近世を迎えるが、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いに際して、兵部は尾崎喜蔵・三ツ目内玄蕃とともに主君為信に叛(そむ)き、堀越城を占拠しようとして失敗。石川城への敗走途中、討ち死にした(『封内事実秘苑』『津軽一統志』、石川城で自殺したともいう)。その後の石川城については明らかでなく、板垣兵部の討死以後、廃城になったと伝えられている。