四 城館の構造

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 石川城には「石川十三館」と呼ばれる多数の曲輪(郭)が存在するが、図5に示したように、それらはさらに、〈一〉大仏ケ鼻城・岡館・猿楽館・月館、〈二〉内館・高田館・寺館・茂兵衛殿館・孫兵衛殿館、〈三〉寺山館の、三つのブロックに分かれている。問題となるのは、これらのブロックのうちどれが石川城の中心か、それぞれの空間の中心となる曲輪(主曲輪)はどこかである。
 第一ブロックの空間は、大仏ケ鼻城と岡館・猿楽館・月館地区(この三つの曲輪を総称し「次兵衛殿館」ともいう)の、二つから構成されている。このうち大仏ケ鼻城は、東西・南北二〇〇メートルの規模を持つが、公園として整備され遺構の残存はよくない。後者は東西二〇〇、南北一五〇メートル。岡館には老人福祉施設「祥風園」が建てられ、さらに第一ブロック全体の南側をJR奥羽本線が横断する。第一ブロック全体としては、東西四〇〇、南北二〇〇メートルの規模になる。
 この第一ブロックの中心部が「大仏ケ鼻城」であることは明白だが、そこへ向う道筋と、城の「大手」となる虎口(出入口)はどこか。
 一般に、石川城の大手としては、大仏ケ鼻城と岡館の間にある堀切、すなわち、現在大仏公園に登って行く道路の位置に考えられがちである。しかしこの場所は、大仏ケ鼻城の直下で、かつ堀切の幅も広く、敵にたやすく侵入されてしまう危険がある。それゆえ、この場所が大手である可能性は少ない。
 大手の第一候補となるのは、むしろ猿楽館と月館の間にある堀切であろう(図5・図6、A地点)。この部分もまた通路となっており、かつては奥にある墓地まで死者を担いで登ったことから「荼毘(だび)坂」と呼ばれていた。その幅は二・八メートルと狭く、一見すると城の「大手」にふさわしい威厳は感じられない。しかし、猿楽館と月館の北側には、この通路を挟んで腰曲輪が設けられ(図7)、城内に入る人を監視するかのようである。また通路の全長は五〇メートルほどで、はじめは右側に緩く曲り、中間で左側に緩く曲る。これは意識して屈曲させたもので、見通しを遮る工夫と見てよいであろう。侵入者にこの狭い通路を通させるのは、攻撃上も有利である。さらに、この通路を登りきったところには段差五〇センチほどの土塁状の高まりpがある。この土塁は城郭で「蔀(しとみ)」と呼ばれる防御施設(敵の直進を止め、さらに内部の見通しを遮る障壁)であろうか。以上のように、この場所には多くの防御遺構が見られることから、大手虎口の第一候補地と考える。

図6 石川城縄張り推定復元図(岡館・猿楽館・月館を中心とした地区)


図7 石川城跡の現状写真と模式図(猿楽館と月館の間に見られる虎口)

 大仏ケ鼻城に入るには、まずこの大手虎口Aを登り、「蔀」に突き当たって直角に左折する。その後、猿楽館の平場の中を通り、左折して岡館の南側を経て大仏ケ鼻城跡の虎口Bの前に出たのであろう、その間には防御を意識したと思われる遺構はない。
 さて、第一ブロックの中心をなす大仏ケ鼻城には、さまざまな防御の施設が設けられていた(図8)。まず大仏ケ鼻城の西側は急崖をなし、直下には水堀と空堀h1が南北平行に掘り切られて、容易に入城できないようになっている。次に、大仏ケ鼻城入口の南側前面には小テラスが数段設けられている。この小テラスは、大仏ケ鼻城の虎口を守備するためのもので、⑯などから侵入者に「横矢」(側面射撃)を射ることができる。大仏ケ鼻城の入口(虎口B)の部分は、現在では公園造成のため破壊され、旧状は不明だが、おそらく「喰違い」が設けられ、城門のような施設があったのであろう。

図8 石川城縄張り推定復元図(大仏ケ鼻城地区)

 大仏ケ鼻城の内部は、北側の大きな平場が一〇段ほど設けられた地区と、南側の山城の地区に分かれる。中心部分は北側の大きな平場で、最奥部の⑩⑪が中枢部であろう。この場所に政庁的役割を持つ建物があったと考えられる(①~⑦は公園整備によって遺構が消滅しているが、資料(2)ア及び大仏公園整備の際の測量図から復元した)。平場の段差は、高低差があるが、〇・五~五メートルほどである。
 中枢部である⑩と⑪に行くには、虎口Bを通り⑧まで直進して入る方法と、虎口Bからすぐ左折して、①の平場→⑫の尾根状の平場→⑬の平場と進んで行く方法が考えられる。虎口Bを通り⑧まで直進して入ることは容易で、それを迎え撃つ施設が南側丘陵の北面に設けられた腰曲輪であろう。しかし、主要通路としては、虎口Bから左折し①の平場を通る後者のルートの方が可能性が高い。なぜなら、このルートの途中の平場⑫と⑬の間には、通路を兼用したように設けられた縦土塁状の遺構aや、それによって区切られた武者溜状の遺構bなどの防御施設が設けているからである。こうした厳重な防御施設を設けたのは、この部分が主曲輪に入るための重要な場所であったためだと思われる。
 一方、南側の山城地区は、平場⑧⑨⑩⑪から入っていく構造となっており、一種の「詰(つめ)の城」のような役割を持っていたと考えられる。この地区で中心となるのが最高所にある⑭⑮の平場であろう。⑭⑮の平場に入るには、「く」の字状に折れた〇・八~一・二メートルほどの幅の通路を登ることになり、通路をにらむ形で腰曲輪が配置されている。また、⑮の平場の南には、Cに降りる屈曲した通路があり、搦手と考えられる。Cは典型的な「枡形」をなしており搦手虎口であろう。また、Cに向かう途中には、小テラスが段状に設けられた遺構cや、縦堀に似た遺構dなど、複雑な遺構が見られる。
 このほかには、平場①の北側から大仏ケ鼻城の直下に降りる通路eがある。これもまた搦手虎口の候補となるが、これは後世に造られた可能性もあり、今後の調査を踏まえた検討が必要である。
 以上のように、この第一ブロックは、軍事要塞と政庁としての機能を合わせ持った大仏ケ鼻城と、その外郭(岡館・猿楽館・月館)から構成されていた。そして、大仏ケ鼻城南半分の「山城」の部分には、特に複雑な工夫が設けられていた。それは、この山城の部分が戦闘時に最後に立てこもる砦として、意識的に整備された結果であると思われる。

図9 石川城跡の現状写真と模式図(大仏ケ鼻城地区)


図10 石川城跡の現状写真と模式図(大仏ケ鼻城地区)

 第一ブロックの西にあるのが、内館・高田館・寺館・茂兵衛殿館・孫兵衛殿館の第二ブロックである(図11)。しかし、この両者の間に、「坊館」と呼ばれる小さな曲輪が存在する。この曲輪は月館西側の独立状の丘陵に少し手を加えた程度のもので、周囲に特別な防御施設はなく、自然の沢が西側を巡って、堀の機能を果しているにすぎない。比高は高いところで八・六メートルである。

図11 石川城縄張り推定復元図(内館を中心とした地区及び寺山館)

 この坊館は、石川城の弱点を補うために設けられた補助的な曲輪であると考えられる。それは、大仏ケ鼻城を中心とした第一ブロックと、内館を中心とした第二ブロックとの間は、大きく開いた自然の沢で、湿地帯ではあるが、敵が攻撃してきた時は侵入路になりやすい。坊館は、この沢を東からにらむ形で設けられている。これによって、防御が強化され、また第一ブロックと第二ブロックの連携も容易になる工夫であろう。
 第二ブロックの、内館(次五兵衛殿館・八幡館ともいう)、高田館(平山館ともいう)、寺館、茂兵衛殿館、孫兵衛殿館(西町館ともいう)の空間は、石川城全体の西側にあたり、五つの曲輪から構成されている。内館・茂兵衛殿館の北側は旧国鉄奥羽本線建設の際に破壊されてしまっているが、分限図から旧状を復元することができる。規模は、東西三五〇メートル、南北三二〇メートルである。
 この空間の主曲輪と考えられるのが「内館」である。根拠の第一は曲輪の配置で、内館を取り巻くように他の曲輪が並んでいること。第二は「内館」という主郭を思わせる曲輪の名称で、事実、県内の中世城館を見ても、この名称は城の中心部分に付けられていることが多い。第三は、現在寺山館にある八幡宮がもとは内館の東端にあり、しかも館神だったと伝えられていることである(『石川町郷土史』、内館を八幡館というのはこのため)。ちなみに八幡神は南部氏=源氏の氏神でもある。
 もう一つ内館で注目されるのが、茂兵衛殿館から内館の北側を「帯曲輪」(曲輪の外周を巡る堀のさらに外側に、帯のように細長く設けた曲輪)のように巡っている遺構である。この帯曲輪と考えられる遺構は、現状で、下の水田からの高さ約四メートル、幅四メートル。現在はJR奥羽本線の路盤として利用され、かなり旧状を損ねているが、ここに帯曲輪があったことは基本資料(1)の石川字平山分限図からも確認できる。この帯曲輪の北は平川旧河道の低地で、また内館との間は幅二〇メートルの空堀となっている。この空堀は戦闘の際に守備兵が移動した空間であろう。そして、この帯曲輪と空堀があるために、内館は北側からの攻撃に対して著しく防御機能を強めている。
 以上のことから、内館が第二ブロックの主曲輪であることは間違いない。しかも、現在こそ内館は隣接の茂兵衛殿館より数メートル低いが、地元の人の話によると、もとは内館の場所が一番高く、数年前のリンゴ園地の整備の際に三メートルほど削られたということである。
 それでは、この主曲輪=内館へ入る通路はどこで、いかなる防御施設が設けられているか。第二ブロックの虎口として明白なのは、南側にある虎口Dと、西側の虎口Eである。そして、この二つの虎口には、それぞれ注目すべき工夫が凝らされている。
 まず南側の虎口Dは、土橋fで高田館・寺館の南辺を巡る空堀h2を渡り、二つの館の間に入ってゆく。空堀h2は幅八・八メートル、深さは現状で〇・七メートルほど、堀の形は箱堀である。おもしろいのは、この堀が土橋fの西側(進行方向左手)五・三メートルの所で、南に曲げられていることで(これを「折り」という)、そのため高田館からは、土橋fを渡って侵入してくる敵を、弓や鉄砲で容易に攻撃できるようになっている。これを「横矢がかり」といい、弘前城など発達した城郭の虎口にしばしば見られる施設である。このことは、虎口Dがおそらく第二ブロックの大手であろうということ、内館を中心とした第二ブロックが発達した城郭としての特徴を持っていることを、示している。
 さて、通路は虎口Dから土橋fを渡って高田館と寺館の間に入るが、この通路部分はわざと屈曲させられて、見通しがきかないように工夫されている。さらにその先に進むと、高田館・寺館と内館の間に平行して横たわっている空堀h3・中土塁状の曲輪・空堀h4の前に出る。この二重堀と中土塁状の曲輪があることで、第二ブロックの主曲輪=内館は南から直接侵入できない構造となっており、虎口Dの「横矢がかり」と合わせ、非常に注目すべき遺構である。ただ、この付近は著しく旧状が破壊されており、どのようにして内館に入って行く構造なのか、地表面の観察からは判断することができない。
 もう一つの虎口Eは搦手に当たり、孫兵衛殿館の西側直下の低地から、直接、孫兵衛殿館に登っていく形で設けられている。通路は急で狭く、途中には屈曲が設けられ、見通しがきかないようになっている。この虎口Eから入った場合は、孫兵衛殿館の内部を進み、遺構gかhの出入口を通って内館に入る形となるが、内館が整地のため削られてしまった上に、孫兵衛殿館・茂兵衛殿館との間も道路となって、旧状の復元は困難である。
 なお、孫兵衛殿館の北側は人工の手が加えられて見事に成形されており、斜面も急傾斜に切り落されて、容易に敵兵が登れないようになっている。この場所は、北側から見上げると威厳さえ感じさせる。孫兵衛殿館と低地との比高は平均九メートルほど、南西側にはかなり規模の大きな腰曲輪が二段設けられている。南側中間部分には大きくくぼんだ場所があり、遺構の存在をうかがわせる。
 また、この孫兵衛殿館と茂兵衛殿館の間は広い空堀となっていて、幅も二〇メートルほどあるが、その中に、さらに茂兵衛殿館寄りに幅九・一メートルの空堀が掘られている。この場所もまた破壊がひどく、原形の復元は困難であるが、あるいはここも「二重堀」の構造になっていたかもしれない。茂兵衛殿館は簡単な造りで、防御遺構は見られない。通路は南側に設けられているが、そこにも防御施設は見られない。
 内館を中心とした第二ブロックは、以上のような造りである。特徴は、平たんな地形だが、内館を中心に北側の帯曲輪や南側の二重堀など、防御を意識した丁寧な造りになっていること、また虎口Dの「横矢がかり」など、発達した城郭の手法が見られることである。そして、この空間は全体が平たんな台地であり、面積も広く、「政庁」として利用するには、まことにふさわしい場所であるといえよう。中心部が「内館」という名称を持ち、南部氏の氏神=八幡宮を祭っていたことも、石川城全体の中でこの地区の性格を考える際の重要なポイントとなる。

図12 石川城跡の現状写真と模式図(内館を中心とした地区)

 第三ブロックの寺山館は、内館を中心とした第二ブロックの南西に位置し、空堀を境に北(曲輪Ⅰ)・南(曲輪Ⅱ)の二つの曲輪からなっている。曲輪Ⅱには、もと内館にあった八幡宮があり、八幡宮が移転してくる前は十一面観音堂があったと伝えられている。また、この寺山館の東西の外周には水堀が設けられている(一部は自然の沢を利用)。全体の規模は、東西一八〇メートル、南北三一〇メートルである。
 寺山館の虎口は北側にあり、孫兵衛殿館の西側先端部の直下を通過し、水堀を渡って館の内に入る。その虎口Fは「枡形虎口」の形をなし、侵入者は水堀を渡る前と後の二度、守備側から攻撃を受ける構造になっている。虎口の東西には、腰曲輪に似た小さな平場が設けられている。虎口Fを入って進むと、前方に高さが二・五メートルの物見台のような遺構⑱がある。通路はこの遺構⑱の前を通り、曲輪Ⅰの内部を進んで曲輪Ⅱとの境をなす空堀跡h5に突き当たる。曲輪Ⅰの西側の部分は平らに整地され、建物があった可能性が高い。また空堀跡h5は「く」の字状に屈曲して造られており、中世での堀の造り方とはやや異なるように感じられる。
 曲輪Ⅱには、空堀跡h5を渡って入るが、土橋などがあった痕跡が見られないことから、木橋が架けられていたのであろう。曲輪Ⅱの全体の形は正方形に近く、東西は自然の沢を利用した堀、南北は空堀で区切られている。南側の空堀跡h6の幅は一〇メートル、深さは現状で〇・五メートルである。また、曲輪の東西斜面には腰曲輪が構築されている。西側に腰曲輪i~mが、東側に腰曲輪n・通路oがある。この通路oは寺山館の搦手に当たると考えられるが、また内館への連絡路だったかもしれない。
 このように、第三ブロックの寺山館跡もまた、それだけで一つの完結した城館をなしている。しかも、枡形虎口Fや、屈曲する空堀跡h5、東西の水堀などの施設は、寺山館が中世末期ないし近世初頭になって築かれたか、大幅に改造されたことをうかがわせる。推測の域を出ないが、石川城落城の後、あるいは豊臣統一政権下で、新たに近世的城館として築かれた可能性も考えられよう。

図13 石川城跡の現状写真と模式図(寺山館地区)


図14 石川城跡の現状写真と模式図(寺山館地区)

 石川城を構成するのは、基本的に以上三つのブロックである。しかしこのほかにも、石川城に含めて考えた方がよいと思われる地区がある。第一ブロックの南、JR奥羽本線の南側に位置する標高約九〇メートルの丘陵がそれである(図15)。

図15 石川城縄張り推定復元図(寺屋敷地区を中心として)

 この地区には、現在「梵応塚」と呼ばれる削平された場所があり、墓地となっていて、南部高信あるいは板垣兵部の墓所と伝えられている。また、その北続きの丘陵にも腰曲輪状の平場が設けられ、リンゴ園や墓地として利用されている。これらは、あたかも山城のような造りをしているが、城郭と断定するには遺構の残りが明瞭でない。そのため、当初、この地域を石川城に入れて考えるべきかどうか判断に苦しんだ。ちなみに一帯の通称は「寺屋敷」。それは、近世に川龍院という寺院があったためだが、このことから、これらの平場が近世以降、墓地として造られた可能性も出てこよう。また、丘陵の南西側にもテラス状の平場があるが、これは明らかにリンゴ園として造成されたものである。
 しかしながら、現地踏査を実施し、この丘陵の頂上に登ってみたところ、大仏ケ鼻城や内館を中心とした地域が手に取るように見えた。もし、この地が敵の陣地とされた場合、石川城は防衛上極めて不利になるわけで、そのような場所を築城の段階で見落としたり、手を加えなかったりすることは、あり得ないであろう。さらに梵応塚の南側には、堀切跡と見られる遺構もある(全長一二メートル、幅六・五メートル、深さは現状で〇・八メートル)。以上から、大仏ケ鼻南側に位置するこの丘陵もまた石川城の一部で、第一ブロック=大仏ケ鼻城の強化のために整備されたものと推定しておくが、なお疑問もあり、最終的な結論は、今後の考古学的な調査・研究の結果にゆだねたい。

図16 石川城跡の現状写真と模式図(孫兵衛殿館及び寺屋敷地区の遺構)