以上、これまで石川城跡に現存する遺構の検討を通じて、この城の「縄張り」=平面プランを復元した。しかし、かつて戦国時代に存在した石川城の姿を復元するには、まだ大きな問題が残っている。それは、これら三つのブロックがどのような関係にあるのか。石川城の中心は「大仏ケ鼻城」地区なのか「内館」地区なのか。そもそもこれらの空間はすべて同時期に存在していたのか、ということである。
もう一つの問題は、「寺山館」の性格である。寺山館跡の発達した虎口や堀の造り方などは、中世末から近世初頭の城館を思わせる。寺山館が中世の時期になんらかの形で城館として利用されていた可能性は否定できないが、現時点で見られる寺山館跡の遺構は、近世初頭に築かれたものと考えてよいだろう。とすれば、なぜそのようなものが改めて構築されたのかが問題となる。
この解明は、今後の研究課題とせざるをえないが、現段階での仮説を述べておきたい。第一は、石川城の三つの空間は、それぞれがまとまりの完結した独立空間をなしていて、これらが同時期に造られたということは、構造上ありえないということ。おそらく当初、大仏ケ鼻城地区か内館を中心とした地区の、どちらか一方が造られ、後に他の地区が増設されたのであろう。
第二に、南部高信時代の石川城の中心部、すなわち南部氏の津軽支配の政庁はどこかであるが、城郭の縄張りから判断すれば、大仏ケ鼻城地区よりも内館を中心とした空間の方がよりふさわしい。その場合、大仏ケ鼻城はいわゆる「詰の城」として機能したことになるが、大仏ケ鼻城内部の平場の役割、岡館・猿楽館・月館地区の性格など、なお問題が残る。むしろ、最初に選ばれたのが大仏ケ鼻城地区で、高信はそこに入り、のちに津軽支配の政庁として、「内館」を中心とする空間を建設・移転。あらためて大仏ケ鼻城を「詰の城」として整備した、という可能性を考えておきたい。
このほかにも、戦国時代の石川「城下町」の復元などが残された問題は多いが、今後の研究課題としたい。