城跡は、高館山麓の蔵王集落から北東に張り出した標高約四二メートルの低い台地の先端を利用して設けられ、周囲の低地とは比高二~三メートルほどの平城である。北を、岩木山に源を発する後長根(うしろながね)川が流れて外堀の機能を果たし、南は岩木川の作った沖積低地で、かつては広大な水田が広がっていた。
大浦城は、元和元年(一六一五)のいわゆる「一国一城令」によって廃城となったが、津軽氏のルーツをなす城の一つであることから、種里城・堀越城とともに重視され、藩政期を通じて旧西の丸に「賀田塩硝御蔵」が設けられて、城番が置かれた。そのため、近年まで保存がよく、比較的明瞭に堀や土塁跡を残していたが、岩木町立津軽中学校(旧本丸・二の丸跡に所在)の改築と、県道賀田交安バイパスの建設(城域南部を横断)によって、大きく破壊され、都市化の進行ともあいまって、現在、遺構は急速に消滅しつつある。
大浦城の周辺(旧城下町地区)
百沢街道と大浦城の大手
大浦城の城下,賀田地区
図17 大浦城跡位置図
大浦城跡の航空写真(昭和40年代撮影)