一 大浦城の立地と現状

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 大浦城跡は、弘前城の西方およそ四・三キロメートル、中津軽郡岩木町五代字早稲田(旧門前村)にあり、同町賀田(よした)集落の西端に接する大規模な城館跡である。城跡の南を、弘前から岩木山麓を経て鰺ヶ沢へ向かう旧百沢街道(主要地方道弘前・岳・鰺ヶ沢線)が通過しており、西の五代集落で旧目屋街道と分岐する。中世の当地域は、津軽鼻和郡大浦郷に属し、津軽平野西部の岩木山麓に位置することから「西根」とも称された。この城の名を「大浦城」、別名「西根の城」(『奥羽永慶軍記』)というのはそのためである。ちなみに「大浦」の名は、「東根」(津軽平野東部)の平賀郡を「上浦」というのに対して付けられたという。大浦城はまた、地名を取って「大浦賀田城」(『新撰陸奥国誌』)「八幡城」(慶安二年「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」、八幡は賀田の北の集落)とも呼ばれた。地理的に見て、ちょうど西浜(西海岸)と内陸を結ぶ街道が津軽平野に出た地点に当たり、交通の結節点で、かつ戦略的要地を占めていた。
 城跡は、高館山麓の蔵王集落から北東に張り出した標高約四二メートルの低い台地の先端を利用して設けられ、周囲の低地とは比高二~三メートルほどの平城である。北を、岩木山に源を発する後長根(うしろながね)川が流れて外堀の機能を果たし、南は岩木川の作った沖積低地で、かつては広大な水田が広がっていた。
 大浦城は、元和元年(一六一五)のいわゆる「一国一城令」によって廃城となったが、津軽氏のルーツをなす城の一つであることから、種里城・堀越城とともに重視され、藩政期を通じて旧西の丸に「賀田塩硝御蔵」が設けられて、城番が置かれた。そのため、近年まで保存がよく、比較的明瞭に堀や土塁跡を残していたが、岩木町立津軽中学校(旧本丸・二の丸跡に所在)の改築と、県道賀田交安バイパスの建設(城域南部を横断)によって、大きく破壊され、都市化の進行ともあいまって、現在、遺構は急速に消滅しつつある。

大浦城の周辺(旧城下町地区)
百沢街道と大浦城の大手


大浦城の城下,賀田地区


図17 大浦城跡位置図


大浦城跡の航空写真(昭和40年代撮影)