二 大浦城の歴史

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 すでに述べたように、大浦の地は、津軽平野西部の戦略的要地を占めており、十六世紀半ば、付近は津軽奪回をはかる下国安藤勢と南部勢との激しい合戦の場となった。文安二年(一四四五)、下国安藤康季が夷島より津軽に入って引根城に拠り、また享徳二年(一四五三)には、康季の子義季が「鼻和郡大浦郷」(大浦郷狼倉(おいのくら)館ともいう)に立てこもって戦ったが、いずれも失敗。義季は南部氏の軍勢に攻められて自殺し、下国惣領家の嫡流は断絶した(『新羅之記録』「下国伊駒安陪姓之家譜」)。このときの「狼倉館」は岩木町新法師(しんぼうし)の地といわれ、新法師南方の高館山頂上に残る高館城跡も、安藤勢が立てこもったところと伝えられている。
 安藤・南部の抗争はなおも続き、下国惣領家を継いだ安東政季もまた、しばしば津軽に侵攻した。こうした中、安東政季死去より三年後の延徳三年(一四九一)、南部氏の一族・光信が九戸郡下久慈より「大浦・種里」に入部。海からの安東勢力の侵入口である西浜の種里に拠って(「前代歴譜」)、南部氏の前衛の役割を担うことになった。後に「津軽氏」を名乗る大浦氏の歴史はここに始まる。さらに文亀二年(一五〇二)、南部大浦光信は「花輪郡賀田郷」の地に築城、「大浦ノ城」と名付け、嫡子盛信を置いた(「前代歴譜」)。これが記録に見える大浦城の最初である。
 その後、大永六年(一五二六)、大浦氏の初代光信は種里城に没し、光信の嫡子盛信が大浦城にあって跡を継ぐ。盛信の後は娘婿の政信が、次いで政信の子為則が継承し、四代為則の跡は、永禄十年(一五六七)婿養子として入った為信(後の津軽藩初代)が継いで大浦氏五代目となった。この間、大浦氏は「大浦屋形」と称され、津軽の大名の一人として勢力を振るったが(「津軽郡中名字」)、その地位はあくまでも〝南部氏の目下の同盟者〟にとどまり、天文二年(一五三三)、津軽平定作戦の上、「津軽郡代」として石川城に入った南部高信の麾下(きか)に属して、指揮を受ける立場であった。しかし、大浦為信は戦国末期の動乱の中で、独立を目指して行動を開始。元亀二年(一五七一)、石川城を急襲して攻略したのを皮切りに、津軽地方の領有を進め、天正十八年(一五九〇)初めには、豊臣統一政権から事実上津軽の支配を承認されるに至る(「津軽家文書」)。
 この過程において、大浦城は為信の津軽統一作戦の本拠地となり、その後も、文禄三年(一五九四)まで津軽氏の本城であった。したがって、大浦城はこの時期に近世大名津軽氏の本拠として大幅な改造を施されたと思われ、現在見る遺構は基本的にこの時代のものであろう。また、弘前市内の誓願寺にある応安四年(一三七一)の板碑は、大浦城跡の本丸石垣より出土したものと伝えられ(中村良之進『陸奥古碑集』)、『新撰陸奥国誌』にも「本丸の跡、(中略)東に虎口あり石垣残る」と記される。大浦城では、少なくとも本丸の虎口部分には石垣が設けられていたわけで、その際、領内の石碑などが転用された可能性もあろう。しかし文禄三年(一五九四)、津軽為信は堀越城を修築して移り、大浦の寺院・町々も移転させたという(『永禄日記』『愚耳舊聴記』『津軽一統志』『封内事実秘苑』)。その後も大浦城は、堀越・高岡(弘前)城の支城として存続したが、元和元年(一六一五)の「一国一城令」によって廃城となった。