四 城館の構造

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 大浦城跡は、慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」(弘前市立図書館蔵八木橋文庫、以下「大道小道之帳」と略称)に「八幡古城」として紹介され、本丸・二の丸・三の丸・西の小丸(西の丸)の四つの曲輪が記されている。近代になり、中村良之進は、二の丸・西の丸の南に二つの曲輪があることを報告し、沼舘愛三は、これを西ノ郭(西館)・南郭と呼んで大浦城の一部に含めた。この二つの曲輪は、明治時代に作られた分限図でも明瞭に読み取れるから、大浦城が少なくとも六つの曲輪から構成されていたことは間違いない。さらに沼舘は、本丸の北、後長根川との間に「北ノ郭」があった可能性もあげているが、ここは現在水田となっている低地で、明瞭な遺構はなく、「大道小道之帳」でも「城之西北之方に小川有、(中略)川岸之高水より三尺あり、水増候へば川岸越申」と記されるような場所であるから、この曲輪の存在は疑問である。以上の想定によって作られた縄張り図が図20であり、以下この図に従って説明する。

図20 大浦城縄張り推定復元図

 大浦城の大手虎口は、百沢街道が東から西へと直進し、城に突き当たった正面の位置に設けられていたと思われる(虎口A)。この大手虎口は現在では破壊されて、面影を見ることはできない。通路は、この虎口Aを通って曲輪Ⅲ(三の丸)に入り、やや左に折れて、曲輪Ⅱ(二の丸)へと進む。曲輪Ⅲは、東側が一・三メートルの段差となり、内部にも〇・八メートルの低い段が二か所造られている。これは敵の直進を妨げる一種の妨害施設であろう(重い鎧(よろい)を着た敵に対しては、わずかな段差も有効な障害になるため、敵の通路となる場所にはこうした仕掛けが造られることが多い)。また曲輪Ⅲと西の曲輪Ⅱの間には、堀h1と土塁aが設けられていた(現在は消滅)。したがって曲輪Ⅲは、曲輪Ⅱ(二の丸)から見て一種の「馬出し曲輪」(虎口の前面の防衛強化のために設けた曲輪、城兵の出撃拠点にもなる)となっており、このことから、大浦城では虎口Aから入る通路が軍事的に重要視されていたことが分かる。
 曲輪Ⅲより曲輪Ⅱに入るには虎口Bを通る。この虎口Bの遺構も現在では消滅しているが、資料(1)イや(2)ア・イによれば、いわゆる「枡形」の形をなし、築城技術の発達した段階のものである(大浦城で枡形があるのはここだけ)。曲輪Ⅱ(二の丸)跡には、津軽中学校の校舎やグランドが建設され、遺構の破壊が著しい。曲輪の北側と南側には土塁や堀跡といった遺構が存在していたはずだが、ここも同じく破壊され、遺構は残っていない。
 曲輪Ⅱの南側には、もう一つの虎口Eが設けられ、旧百沢街道に向けて開いた虎口Fに通じる。虎口Fは一般に大浦城の大手門跡とされ、建物は慶長十五年(一六一〇)の高岡城築城の際、高岡城(弘前城)の追手(亀甲門)二の門として三の丸の北虎口に移築、「賀田門」と称されたという(明治時代に破却)。事実、明治の分限図によれば、虎口Fの東側は、堀が外側に張り出して「横矢がかり」の工夫がされ、また虎口Fを入ると右手前方をふさぐように平場dが設けられている。これは見張り用の平場と考えてよいであろう。さらに、この部分には人工的に切り出したと思われる大きな長方形の石が、捨てられた状態で散在していた。
 しかし、虎口Fが大浦城の「大手」だったとしても、それは近世のことで、本来は三の丸の東側の入口が大手ではなかったろうか。その理由の第一は、曲輪Ⅱ(二の丸)のもう一つの虎口Bには、みごとな「枡形」遺構があるが、虎口Fにはそうした工夫がされていないこと。第二は、虎口FからEを経て城内に入ると、すぐに主曲輪(本丸)に達してしまうことで、そのような場所を「大手」にしたとは思えない。
 曲輪Ⅱから曲輪I(本丸)に入るには虎口Cを通る。虎口Cを造る土塁b・水堀h2には、外側に張り出して「折り」が設けられ、「横矢がかり」の工夫が施されている。しかし土塁bは、北側は中学校の校舎を造る際に破壊され、西側と南側にわずかに土塁があった痕跡をとどめるにすぎない。土塁bの上は幅が三・九メートルと広く、近世城郭に多用される「折り」が随所に設けられている。土塁bに平行した形で、外側には堀h2が設けられている。堀h2の幅は一三・五メートル、深さは現状で一メートルほど。曲輪Iの全体の形はほぼ方形である。
 曲輪Iの西側には搦手Dがある。幅はおよそ五メートルで、堀h2に設けられた土橋を渡って曲輪Ⅳ(西の丸)に入る。曲輪Ⅳは現在リンゴ園となっており、ほぼ二等辺三角形の形をしている。この曲輪Ⅳも曲輪I(本丸)と同じく、土塁C、水堀h4が巡っている。堀h4の幅は六・八メートル、深さは現状で〇・七メートルである。
 曲輪Ⅳの南側にも虎口Gがあった。これも現状では不明だが、資料(2)アの実測図や明治の分限図から判明するもので、土塁の間から南に出て、堀h4の中土塁上に設けられた通路を通って遺構eの地点に出る。この虎口の部分で堀h4は「折り」の形となっている。また遺構eとした部分で堀h2と堀h4は断ち切られており、一種の通路になっていた。曲輪Ⅴ(西ノ郭)は現在は水田である。曲輪Ⅴは堀h5によって造り出されるが、現在この堀h5は確認することができない。曲輪Ⅵ(南郭)も現在は水田で、堀h6によって曲輪が造り出されるが、この堀h6も現在では確認することはできない。
 以上のように、最終段階の大浦城は六つの曲輪から構成されていた。そして、虎口には、「枡形虎口」という築城技術がかなり発達した段階の手法が取り入れられていた。そのほか「折り」の多用、水堀の規模の大きさ、土塁の規模、石垣の使用(ただし本丸虎口のみ)など、近世大名津軽氏の津軽支配の政庁として、それなりにふさわしい威厳と内容を持った城館である。ただし、大浦城がこのような形を整える以前、戦国時代において、いかなる姿と構造を持っていたかは、地表からの観察では不明で、考古学的調査も含めた今後の研究課題となる。

図21 大浦城跡の現状写真と模式図


図22 大浦城跡の現状写真と模式図