それならば、大浦城の旧城下町とされる賀田地区において、かつての町の姿を復元することは可能であろうか。この場合、手がかりになるのが、資料(1)イの明治十八年(一八八五)作成の賀田字大浦分限図である(図23)。この図からも明瞭なように、賀田集落の中央を通る百沢街道に沿って、整然とした「短冊型地割(たんざくがたちわり)」が並び、宅地として使われていた。実は、こうした「短冊型地割」は農村には見られない都市特有のものであり、その発生は中世にさかのぼることが、近年の都市研究によって明らかにされている(前川要「中世都市遺跡調査の視点」『季刊・考古学』三九号・特集中世を考古学する、一九九二年、など)。賀田の集落は、大浦城の廃城以後、新たな都市的発展はなかったと思われるから、この地割が造られたのが大浦「城下」時代のことだったと見てまず誤りないと思う。
図23 大浦城及び城下推定復元図(ベースマップは明治18年・26年分限図)
分限図から読み取れる「賀田旧城下町」の姿は、次のようなものである。
まず、旧百沢街道が一町田・高屋(旧坪貝村)を過ぎ、賀田字大浦の地内に入る手前で、街道が緩く左に折れ屈曲する地点がある(①)。この屈曲①があるおかげで、東から賀田の町並みを見通せない仕組みになっており、おそらく意図的に設けられたものであろう。また、この屈曲の少し西に堰があり、そこから先が賀田の集落となる。分限図を見ても明確な短冊型地割はそこから始まっている。現在は賀田の東(旧坪貝村)まで町並みが広がっているが、本来、屈曲部①から先が大浦「城下」だったと思われる。
賀田の町の特徴は、街道に沿って整然とした「短冊型地割」が設けられていることである。北側に二〇筆、南側にも二〇筆ある(細い短冊型の地割を含む)。大浦城跡周辺でこうしたみごとな短冊型地割は、ほかに見当たらない。大浦「城下」は西の門前地区にも伸びていたが、賀田地区が「城下町」の中心であったことは間違いない。また、この町並みの西端近くで北へ分岐する道がある。この道沿いにも、東側七筆、西側六筆と短冊型地割が並んでおり、ここもまた「旧城下町」の一部と考えられる。
注目したいのは、この道が町並みを抜けた地点に、鍵型の屈曲②が設けられていることである。これもまた城下町特有の施設で、この地点が賀田「城下町」の北の入口だったと思われる。道は、この屈曲の先で後長根川を渡り、西の八幡、北の鼻和集落へ向う。八幡は賀田の親村であり、津軽弘前藩の惣鎮守八幡宮は慶長十七年(一六一二)までこの地にあった。したがって、この道路もまた中世以来のものに違いない。一方、百沢街道は賀田の町の西端で左折し(③地点)、大浦城の堀に沿って寺院街のある門前地区に向かっている。
以上から判断される大浦城下町の特徴は、第一に、大浦城下を東西に走る百沢街道に沿って細長く町が形成されていたこと。第二に、町の中心は城の東(賀田)と西側(門前)にあったこと。第三に、東の賀田地区では、短冊型地割の町並みや、町の入口の屈曲部など、計画的な町造りが行われていたこと、しかし町の基本骨格は、東西に走る百沢街道の両側に町屋が並ぶ比較的単純な形だったことである。一般に中世都市では、都市の中心を通る中軸街路に沿って、両側に家並みが細長く連なるという、いわゆる「両側町」が基本的な姿であった。近世の弘前城下町のように、平行して街路が何本も設けられ、それぞれに町並みが発達して、都市が平面的にも広がるという例は、京都・鎌倉を除くと、戦国時代の堺や博多、武田氏の城下町甲府など、わずかの場合に見られるにすぎなかった。こうした意味で、大浦「城下町」は、まさしく中世都市の段階にとどまっており、津軽氏が近世大名に飛躍しようとすれば、もう一段の飛躍を必要としたことが、復元された「城下町」の姿から分かるのである。
大浦城跡と旧城下の賀田地区(平成元年撮影)