一 堀越城の立地と現状

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 堀越城跡は、弘前市街から旧国道七号を通って石川に至るほぼ中間、市内堀越字川合・柏田にある。城域の規模は東西・南北約三五〇メートルで、これに城下町の一部を「町曲輪」として取り込んだ規模の大きな城郭である。城跡のある堀越集落は、岩木川の支流の一つ平川と大和沢川の合流点から南西五〇〇メートルの、津軽平野南部の沖積扇状地に位置しており、沖積扇状地の東端、東を流れる平川の氾濫原から約三メートルの比高差をもった高みを利用して設けられた平城である。
 堀越の地は、中世において津軽平賀郡に属していたが、この地は津軽平野南部を南北に縦断して流れる平川(中世には平賀川・堀越川などと呼ばれた)のすぐ西岸に位置し、平賀・石川・大鰐を中心とする「東根」地方と、鼻和・大浦を中心とする「西根」地方との、いわば境界地帯であった。そのため、南北朝時代以降、しばしば両勢力の前線基地として城館が設けられ、激しい攻防が行われたり、作戦基地とされた歴史を有していた。
 堀越城跡がとりわけ注目されるのは、文禄三年(一五九四)、津軽為信が大浦城からこの地に本拠を移し、慶長十六年(一六一一)、二代信枚が高岡城(弘前城)に移るまでの十七年間、津軽藩の治府となったからである。この時期、堀越城は大改修され、「政庁」としての機能を果たす大城郭となった。それはまた、豊臣大名として認知された津軽氏が、自らを近世大名へと成長させてゆくステップでもあった。それゆえ、堀越城及び堀越城下町の実像の解明は、近世大名津軽氏の権力の形成と、津軽地方における中世から近世への移行の様相を明らかにする上で、重要な意味を持っている。
 堀越城は、藩政時代には種里城・大浦城とともに「当家の御居城」(『津軽一統志』)として重視され、遺構もよく残されてきた。近代になって、二の丸はリンゴ園に、それ以外の多くは宅地となり、昭和五十二年(一九七七)には、城跡の一部を横切って国道七号石川バイパスが建設されたが、昭和六十年(一九八五)、先に指定されていた弘前城跡と合わせて「津軽氏城跡」として国史跡に指定、保存・整備計画が立てられて、本丸・二の丸と三の丸の一部は公有地化が進められている。なお、石川バイパス建設工事に伴い、昭和五十一年・五十二年(一九七六・一九七七)、二の丸地区で緊急発掘調査が行われ、昭和五十三年(一九七八)にも前川の災害復旧関連工事による緊急調査が実施された。

堀越城跡航空写真
(南西側より撮影・平成4年)


南方より曲輪I(本丸)を望む


曲輪I(本丸)の虎口D部分


図24 堀越城跡位置図


堀越城跡の航空写真(昭和20年代撮影)