(2) 戦国時代の堀越城

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 堀越城は、戦国時代末期、大浦為信による津軽平定作戦の基地として再び姿を現す。「津軽氏系譜(歴譜)」は、大浦為則の弟甚三郎守信は、はじめ赤石城にいたが、後に堀越城主武田重信の養子となって堀越紀伊守守信と名乗り、その子為信が為則の養子となって大浦城主を継いだと記す。この話は、『津軽一統志』『封内事実秘苑』にもあるが、「歴譜」とは若干異なって、為信は父守信の戦死後、しばらく堀越にいて町(町居)飛鳥(守信の母方の従兄弟)に扶助され、のち、為則の養子となって堀越から大浦へ移ったとしている。為信の出自については定かでなく、南部側の資料では、久慈信義の異母弟弥四郎が兄と不和になって津軽に逃れ、大浦氏を頼って、のち為則の養子になったとしているが(「南部久慈氏系図」)、戦国時代において堀越の地に城館があり、その主が「堀越氏」を名乗り、大浦氏の与党であったことは、確かであろう。
 元亀二年(一五七一)、為信は巧みに南部高信を偽り、堀越にある「町飛鳥の屋敷」(「堀越の旧城」ともある)を修築。五月、ここを前進拠点として一気に石川城を攻略した。この「町飛鳥の屋敷」こそ問題の堀越城である。その後も堀越城は、南部勢の津軽侵攻に対する防戦や、天正三年(一五七五)の大光寺城攻めなど、為信の津軽東部・南部平定作戦に際して、重要な前進基地となっており、戦いの際は為信自らが堀越城に入って全軍を指揮したという(『津軽一統志』『封内事実秘苑』)。
 当時の堀越城の姿についても、不明としか言いようがない。しかしながら、石川バイパス建設の際の緊急調査で見つかった五本の薬研堀のうち、戦国時代のものとされる三本は、この時代の堀越城の遺構である可能性が強い。そして、当初「屋敷」といわれる程度の小規模な城郭だった堀越城が、相次ぐ合戦の中で軍事基地として改修、強化されていったことが推測される。