(3) 津軽氏の政庁としての堀越城

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 『永禄日記』は、天正十五年(一五八七)、「正月より堀越御城所々築直し、人夫多く出、大工小屋多く懸り申候」と、為信が堀越城を大々的に改修した記事を載せている。この記事は『封内事実秘苑』にもあり、この時点ですでに、為信が新たな拠点として堀越城に注目し、その強化に乗り出したことを知ることができる。大浦の地は戦略的要地ではあるが、津軽平野の西に偏り、津軽全域を支配する本拠としては不十分だったからである。これに対し堀越は、津軽の西根と東根の接点にあり、かつての南部高信の本拠石川城にも近く、津軽の政治的中心としての地理的条件を備えていた。
 その七年後の文禄三年(一五九四)、為信は改めて堀越城を修築、その上で大浦からこの地に本拠を移し、津軽藩の治府とした。現在見る堀越城の遺構は、この時期のものである。このとき「在々住居之諸人並大浦御城下面々、堀越え御引越被仰付、其外寺社之分も引越被仰付候」(『永禄日記』)、あるいは「寺院並町々共大浦より堀越へ移る」(『封内事実秘苑』)と伝えられている。つまり、堀越城下に集められたのは、大浦にあった寺院と町、それに津軽氏の家臣団であった。それゆえ、これらの記録が正しければ、堀越城では家臣団の集住が進められただけで、領内の寺社・商工業者の城下集住は未達成であり、津軽氏にとって堀越はあくまで過渡期の本拠だったことになる(なお『愚耳舊聴記』では、町の移転を記さないかわりに、領内の寺院を「不残堀越へ御引越させ」たと述べている)。
 しかも、この堀越城では、慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原出陣の際の尾崎・板垣・三目内三将の反乱や、同七年の天藤騒動の際の乱入事件、さらに同十一年の堀越川(平川)大洪水など不祥事が相次ぎ、軍事的・地形的欠陥が明らかになった。為信は、早くも慶長八年(一六〇三)、高岡(弘前)の地に「町屋派立を仰付けられ」て地割を行い、同十一年にも、「町屋相立て」て住民の移住を促したという(『封内事実秘苑』)。
 かくして慶長十六年、二代信枚は新造なった高岡城(弘前城)に移り、さらに元和元年(一六一五)の「一国一城令」によって、堀越城は廃城となった。その後も堀越村は、羽州街道の宿場としてある程度のにぎわいを保持したが、貞享二年(一六八五)に、街道のこの区間が廃止され、往来が差止めとなると、著しく衰えて農村と化したという。