堀越古城 但平城大道筋
一、本丸之内東之方卅間、南廿壱間、西廿間、北五拾弐間半、四方堀之広さ十間宛、深さ三間、土手之高さ弐間宛、西北之方ニ口有、
一、二之丸之内東方五拾五間、南十七間、西五拾間、北廿七間半、四方堀之広さ八間宛、深さ四間宛、土手之高さ壱間半宛、東西之方ニ口有、
一、三之丸之内東西江四拾三間、南北へ八十五間、四方堀之広さ九間宛、深さ三間宛、土手之高さ壱間半宛、但右之外ニ南北ニ堀有、此堀之広さ拾五間宛、深さ弐間、土手之高さ壱間半宛、但南北二重堀之東西北ニ口有、
一、本丸より西に小丸有、東方七拾七間、南拾弐間半、西七十間、北四拾五間、四方堀広七間宛、深さ弐間宛、土手之高さ壱間半宛、東西に口有、
一、惣がわ四方共ニ田地、但浅田、城下より三町東ニ平か川有、この広さ廿七間深弐尺三寸五寸、但歩渡り、西北之方城より弐町三町外ニ門家川有、但小川南之方城下ニ大道有、馬かけ四方共ニ自由、但城下西より南へ町屋有、
とあり、本丸・二之丸・三之丸・西の小丸の、四つの曲輪からなっていたと報告されている。この四つの曲輪は、それぞれ以下に述べる曲輪Ⅰ(本丸)・曲輪ⅡA(二之丸)・曲輪ⅡB(三之丸)・曲輪Ⅲ(西の小丸)に相当するもので、『永禄日記』『津軽一統志』『封内事実秘苑』など近世の記録でも、同様の呼称が使われているが、現在一般には曲輪ⅡA・Bを合わせて「二の丸」とし、曲輪Ⅲを「三の丸」と呼ぶことが多い(「三の丸」については曲輪Ⅳ・Ⅴを含める場合もある)。さらに、現在残る遺構や、分限図・航空写真・古絵図を参照して考えれば、堀越城の縄張りはこの四つの曲輪にとどまらず、曲輪Ⅳ・Ⅴの地域にまで広がっていたことが判明する。
それゆえ、ここでは本丸・二の丸などの通称は使わず、曲輪Ⅰ(いわゆる「本丸」)、曲輪Ⅱ(いわゆる「二の丸」)、曲輪Ⅲ(狭義の「三の丸」)、曲輪Ⅳ(「馬場」と呼ばれる)、曲輪Ⅴ(「北郭」と呼ばれる)と称し、曲輪Ⅱについては三つのブロックに分けられることから、それぞれ曲輪ⅡA・ⅡB・ⅡCと表記した。したがって堀越城は、曲輪ⅠからⅤまでの五つ、厳密には七つの曲輪からなっていた(図28)。
図28 堀越城縄張り推定復元図
堀越城の大手は、曲輪Ⅲの西、弘前から進んできた羽州街道(旧国道七号)が南に曲がる地点にある。(図28・29)現在、この場所には曲輪Ⅰに鎮座する熊野神社の鳥居が立っている。曲輪Ⅲの周りには幅七メートルほどの水堀h3が巡っていたが、現在は埋め立てられ、特に西側の部分は、道路(旧国道七号)の拡張によって全く面影をとどめていない。大手虎口Aは、この羽州街道からおそらくa地点にあったであろう木橋を利用して曲輪Ⅲに入る形となる。この曲輪Ⅲは、後の記録では「西の小丸(郭)」と呼ばれ、城内に入る人の監視や、合戦の際の前進基地となる重要な部分である。
図29 堀越城縄張り推定復元図(部分拡大)
曲輪Ⅲから曲輪Ⅱに入るには水堀跡h2を渡ってゆく。堀h2の幅はおよそ一三メートル、深さは現状で〇・七メートルほどである。ここにも木橋が架けられていたらしい。曲輪Ⅱに入る虎口の部分は、南北の土塁d1が喰違いとなっていて、南側の土塁が張り出す形となっている。しかもこの土塁は、虎口Bの南二メートルのところ(b地点)で、大きく西に突き出して(「折り」)、かつ幅の広い高台となっている。これは、曲輪Ⅱに侵入する敵に対して二段構えの側面攻撃(「横矢がかり」)を行うための工夫であり、堀越城にとってこの虎口が特に重要な入口だったことを示すものである。b地点には櫓のような建物が置かれていた可能性がある。
図30 堀越城跡の現状写真と模式図
図31 堀越城跡の現状写真と模式図
曲輪Ⅱは、現在一般に「二の丸」と呼ばれているが、実は、全体がA・B・Cの3つの空間に分かれる複数の曲輪である。曲輪ⅡAとⅡBを分けるのが「枡型虎口」Cである。この虎口Cは、曲輪Ⅴから堀h2に架けられた橋を渡って曲輪Ⅱへ入る通路が、曲輪ⅡAに入る地点に設けられたもので、土塁d1と土塁d2によって、みごとな「枡形」が作り出されている。しかも、この虎口Cから曲輪ⅡAに入った通路は、曲輪Ⅰ(本丸)を囲む堀h1に突き当たったところで、左右に分かれ、左の堀h1沿いの狭い通路nを通れば、曲輪ⅡBに入れるようになっている。先に紹介した慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」でも、ⅡAを「二之丸」、ⅡBを「三之丸」と呼んでおり、両者は本来、別個の曲輪として考えるべきであろう。
曲輪ⅡAは、大手虎口から城内に入った通路が、曲輪Ⅰ(本丸)へと進んで行く手前に置かれた曲輪で、「二の丸」と呼ぶにふさわしい場所である。一方、曲輪ⅡBは、曲輪Ⅰ(本丸)の東に隣接する広い面積を持った曲輪で、南には曲輪Ⅰ(本丸)へ入るためのもう一つの虎口E(本丸搦手)が設けられていた。曲輪ⅡA・Bの外周には土塁が巡らされている。土塁は現状ではかなり削平されているが、それでも高さは平均すると一・五メートルほどあり、幅も広いところで四メートルを超える。
堀越城跡で特に注目すべき遺構が、曲輪Ⅰ(本丸)の南側に、曲輪ⅡAとBをつなぐように設けられた中土塁cである。この中土塁cによって、曲輪Ⅰを囲む水堀h1は、その外側の幅広の水堀h2と区分され、一定の水量を保てる仕組みとなっている。しかも、この中土塁cと曲輪ⅡA・Bが接続する地点には、中土塁を通った者がいきなり曲輪ⅡA・Bの内部に入れないように、防衛上の工夫が凝らされており(m地点に遺構が残る)、単なる水量調節の土手にとどまらない防衛上の重要な施設だったことが分かる。おそらく、この中土塁cは、曲輪Ⅲから曲輪ⅡAを経て曲輪Ⅰ(本丸)の大手虎口D正面(o地点)に到達した敵を、誘導してこの狭い土塁の中に誘い入れ、逃げ場のなくなったところで、曲輪Ⅰ(本丸)から集中攻撃をかけて殲滅(せんめつ)する、という目的で設けられた、本丸(曲輪Ⅰ)防衛上の重要施設だったのであろう。現在では、中土塁cは、高さ約〇・九メートル、幅も広いところで一メートルと、かなり削られてしまって、一見すると田圃の畦道のようだが、要所に「折り」が設けられるなど、曲輪Ⅰの外側のラインにきちんと平行していて、堀越城の遺構の一部であることは明白である。
図32 堀越城縄張り推定復元図(部分拡大)
曲輪ⅡBの東に、曲輪ⅡCがある。現在、ⅡBとⅡCの間には「五ケ村堰」といわれる用水路が走っているが、その北側の部分は、分限図や遺構の状態から判断して、もともとあった堀h6に用水路を通したものと考えられる。しかし、この堀h6は曲輪ⅡBとⅡCを完全に区切らず途中で終わっていて、曲輪ⅡCは南側で直接曲輪ⅡBとつながっていた可能性が高い。この場所には柵と木戸が設けられ、ⅡB・ⅡCを区画していたであろう。また、曲輪Ⅱの北側を巡る堀跡h2は、曲輪ⅡBとⅡCが接する地点で意識的に屈曲させ、見通しがきかないように工夫されている。曲輪ⅡCの東側は平川沿いの低地で、高さ三メートルほどの比高差がある。かつては、すぐ東を平川が流れていた時代があったと思われる。この曲輪の北側堀跡h2に接する場所には、高さ二メートルほどの物見台のような遺構dがあり、さらに東へ三二メートルほどの長さで高みが続いている。地元の人々は〝大光寺方面への物見台〟と呼んでいるが、どのような性格の施設か、現時点でははっきりしない。またこの曲輪からは、鉄製品を作る際に出る「鉄滓」が耕作に伴なってしばしば発見されている。
曲輪ⅡB・ⅡC地区については、昭和五十一年・五十二年(一九七六・七七)にバイパス建設に伴なう緊急発掘調査が行われた。その際、曲輪ⅡBの北側の堀跡h2に近い場所から、堀跡h1~h6とは時期の異なる三つの堀跡を検出、「城郭が形成されてより三回にわたる大改修を受けたことを明らかにした」と報告されている。堀跡1は室町時代前中葉。堀跡2は1より新しく、堀跡3は「掻き上げを終えたあと黄白色粘土を張りつける濠床構築をしている、(中略)この構築技術の普及は、津軽地方では戦国時代に入ってからとのことである」という。三つの堀はすべて水堀で、形状は薬研堀であった。また曲輪ⅡCの南側の「折り」の部分からは、土留め遺構も検出された。「松の成生木を根元から刃の鋭い物で切り倒し、法直下に横わたし、その両側に約一尺の間隔で同様の松で造作された七〇センチメートル前後の杭を打ち込み、さらに郭内側に柴木を並べてこの間にも杭を打ち込み、そして上に灰白色粘土や青灰色粘土をかぶせて法壁を造作し」たものという(図33)。
図33 堀越城跡発掘調査で検出された遺構
旧濠跡走行図
C-2-a区土留断面図
二の丸跡南域拡張推移図
第2期拡張法土留め抗組図
初期二の丸郭法土留め抗組図
堀越城の「本丸」である曲輪Ⅰには、曲輪ⅡAから水堀h1を渡って、西の虎口D(大手)から入るか、あるいは曲輪ⅡBから同じく堀h1を渡り、東南に設けられた虎口E(搦手)を通って入っていく。水堀h1を渡る場所には、どちらも木橋が架かっていたものと思われる。水堀h1は、幅が一三メートルほど、深さは現状で一・二メートルほどである。ここの堀跡の残存状態は良好である。曲輪Ⅰの周囲にはすべて土塁d3が巡らされ、虎口部分だけが開口されている。本丸大手に当たる虎口Dは幅が三メートルほどで、曲輪Ⅲから曲輪ⅡAに入る場所の虎口と同じく、南側が張り出した喰違い虎口となっていて、しかも南側の土塁の幅が広い「櫓台」状の造りである。
曲輪Ⅰを囲む土塁d3は、現状でも、高さが内側で平均二・八メートル、外側の堀底面からは五・五メートルほどもあり、土塁頂部の幅もまた一・九メートルに達する堂々とした造りである。しかも、北東側と南側の二か所で「横矢」を射るため「折り」を設けているなど、発達した近世城郭の特徴を持っている。現在、土塁d3は東側の一部が欠けており、天和四年(一六八四)の堀越村書上絵図でも、既にそうした状態が描かれているが、曲輪Ⅰ(本丸)の防衛上、この部分に土塁がない場合には致命的な欠陥となるので、本来は存在していたものと考えられる。おそらく元和元年の「一国一城令」の際に、曲輪Ⅰの機能を失わせるために、この部分の土塁の破却が行われたのであろう。
曲輪Ⅳは、曲輪Ⅰ・ⅡBと幅広の水堀h2を挟んで向かい合う広大な曲輪で、通称「馬場」とも呼ばれている。西は水堀h5、南は前川で区画される。この曲輪Ⅳには、西側に隣接する町曲輪Ⅱから、土橋eを渡って入るか、北東側の曲輪ⅡCから連絡路の土橋fを通って入る。土橋fは、全長五〇メートル、高さ一・八メートルである。土橋fは現在は「五ケ村堰」を通す築堤となっていて、後の時代に築かれた可能性もあるが、この土橋fがあることによって、はじめて水堀h2に貯水能力が備わる構造となっていることから、当初から土橋fがあったものと推定した。曲輪Ⅳの東側は平川に続く低地で、比高差は一~二メートルほどあるが、この部分には「折り」状の遺構が二か所残っている。なお国道七号バイパスが前川を渡って曲輪Ⅳに入る地点に架かっている橋を「鷹匠橋」といい、近辺に鷹匠衆が居住したという地名伝承によるものだという(長谷川成一「津軽氏城跡に関する歴史的考察」『史跡津軽氏城跡・保存管理策定報告書』一九八九年)。
曲輪Ⅴは「北郭」とも呼ばれている。この曲輪Ⅴを造り出すのが水堀h4で、北東側の部分については分限図や航空写真でも明瞭に読み取れ、近年まで遺構も残っていたが、埋め立てにより消滅してしまった。また、この曲輪の南側、堀h2に接した場所には、曲輪Ⅴより〇・四五メートルほど低い平場gがある、この平場gから前述した虎口Cに入るわけだが、平場gは虎口Cより一メートル低くなっており、侵入する敵をいったん低い位置に降ろし、それを上方からねらえるようにする目的で、設けられた工夫であろう。
このように、堀越城の縄張りは、曲輪Ⅰ(本丸)を中心として、それを取り囲む形で複数の曲輪が配置され、城の中心部に達するにはいくつもの曲輪や虎口を通過しなければならない構造になっている。また、防御遺構を見ると、幅の広い水堀を設け、「折り」や「横矢がかり」などの工夫がなされ、さらに喰違い虎口や枡形虎口などで曲輪の出入口を立派に構築している。しかし、中土塁cや、それと曲輪ⅡBとの接点にある防御施設m、さらに曲輪Ⅴの平場gのように、戦闘の際の防御も十分留意した構えを設けており、発達した近世城郭の特徴を備えつつも、戦乱の時代の名残をとどめた城郭と言えよう。