この「都市堀越」復元の基礎資料となるのが、明治二十七年(一八九四)に作られた分限図である。この分限図を縮小しつなぎ合わせたものが図34のベースマップだが、この図からは、中世・近世の都市に典型的な「短冊型地割」が、羽州街道に沿って、①曲輪Ⅳの前川を挾んだ対岸の地区(町Ⅰ)、②曲輪Ⅰ(本丸)から堀h2・h5を挟んだ向いの地区(町曲輪Ⅱ)、③大手虎口の正面の地区(町曲輪Ⅰ・町Ⅱ)に、びっしりと並んでいる状況が読み取れる。
図34 堀越城及び城下推定復元図
(ベースマップは明治27年分限図)
もう一つの資料は、天和四年(一六八四)の堀越村書上絵図である。この図にも石川村から進んできた羽州街道が堀越村に入り、堀越城跡(「古城」と記されている)の周りの集落を通って、何度か屈曲しつつ、弘前城下へと進んで行く状況が明瞭に描かれている。この天和の絵図に記された街道・集落の姿は、明治の分限図に記された街路・短冊型地割と基本的に変わらないし、「大道小道之帳」の記述とも一致する。堀越城は、天和の「一国一城令」で廃城となり、貞享二年(一六八五、天和の絵図作成の翌年)には宿場としての機能も失って、農村と化したから、ここに記された街路と短冊形の地割が、近世初めの堀越城下町時代のものと考えて、問題はないと思う。そして、以上のことから、堀越城下町の形態は、羽州街道に沿って両側に町屋が並び、しかもその町並が細長く連なる、いわゆる「街村状」の町であったことが分かる。
では、この堀越城下町の範囲はどこからどこまでであったろうか。注目すべきは、天和の絵図では、羽州街道が堀越の集落に入る東西の入口(石川方面と弘前方面からの入口)に、「村隠(むらかくし)」として高さ七尺(二・一メートルほど)の土塁が記されていることである。おそらく、この土塁は、城下町の入口に設けられた防御施設の名残であり、そこには本来、町の入口として木戸が置かれていたのであろう。この東西二つの木戸に守られた地域こそ、かつての「堀越城下町」の範囲だったに違いない。
堀越城へ入る大手虎口Aの跡
さらに、この「堀越城下町」の内部は、堀越城の東南の外堀をなす前川と、大手虎口から弘前方面に約二〇〇メートル進んだところにある水濠及び溜池を境にして、①城に隣接した地区(町曲輪Ⅰ・Ⅱと、②その外側の地区(町Ⅰ・Ⅱ)に分けられていた。そして、①の「町曲輪Ⅰ・Ⅱ」の地区は、一方を堀越城の堀、外周を前川や水濠(現在は用水路)によって囲まれた曲輪状の地域であり、しかも、それぞれ城の大手虎口や曲輪Ⅰ(本丸)に直接面するという、防衛上、城郭内に準ずる重要な場所であった。ちなみに、町曲輪Ⅰの南の地域には、天和の絵図で「道心寺」という名の寺院が描かれ(現在でもここには寺院と墓地がある)、また明治時代の分限図を見ても、短冊型地割とは明瞭に異なる地割が広がっていて、ここにかつての堀越城下町の寺院街が存在した可能性は非常に高い。これまでの中世都市研究によって、戦国時代の城下町においては、一般に、①城郭、②「町曲輪」「町構」「外構」「宿城」などと呼ばれる城郭の一部に取り込まれた町並み地域、③その外側の「町」「宿」の地域、の三重構造を取っていたことが明らかにされているが、以上から復元される堀越城下町もまた、明確にそうした構造を持っていたことが判明しよう。堀越城下町の内部をさらに二つに区分し、それぞれ「町曲輪」「町」と表現したのは、こうした理由による。なお、城郭に隣接する「町曲輪」地区は、堀h2から西に続く水濠によって、さらにⅠ・Ⅱの二つの地区に分離されていた。
右上 町Ⅰ地区を東西に貫く街路
左上 旧羽州街道(堀越城下南口)
左 大手虎口正面から見た旧羽州街道
図34の堀越城下町復元図は、以上の復元作業によって作成した。この復元図から推測される堀越城下町の特徴は、①羽州街道に沿って街村状をなす「両側町」の形態であること、②城-町曲輪-町という、戦国期城下町に特有の構造を持っていること、③津軽領内の寺社や商工業者を集住させるには規模が小さいことの三点で、後の弘前城下町とは明らかに異質であり、未だ中世都市の性格を脱しきれなかったものと評価できるであろう。そして、この評価は、二の「堀越城の歴史」の項で述べたこととも一致する。