一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史

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 弘前市の飛地となっている東目屋地区には、規模は小さいが数多くの中世城館跡が残っている。ここではその中から、①国吉館跡、②坂本館跡の二つを取り上げ、さらに東目屋地区全体の城館相互のネットワークについて見ていきたい。
 東目屋地区の城館について考える際、注目されるのが「十二人屋形城衆」の伝承である。十二人屋形城衆とは近世の「関家文書」などに見えるもので、十五世紀半ばの文明年中(一四六九~八七)、南部氏の家人十二将が津軽鼻和郡に派遣され、要所に配置されたといわれる。記録に伝えられた「十二人屋形城衆」の名は、①桜庭太郎左衛門、②中畑惣助、③村市与七郎、④大秋彦次郎、⑤高杉孫二郎、⑥新岡兵助、⑦神三右衛門、⑧志戸沢与五郎、⑨蒔苗新兵衛、⑩町田孫十郎、⑪玉野井五郎兵衛、⑫関惣右衛門の十二人である。このうち、①②は東目屋地区、③④は西目屋地区の大字名を名字としており、⑫の関惣右衛門は「城代」として、深浦町の関と東目屋の国吉に居館を持っていたと伝えられる(『津軽封内城趾考』)。
 また『津軽一統志』巻七も、「古城垣上」として「桜庭太郎左衛門初名兵助信正、(中略)国吉関惣右衛門、弟黒土近江ヲ分知ス、蒔苗八右衛門、村市形部、(中略)高杉杢左衛門、町田今藤次郎、(中略)大秋彦次郎、志戸沢与五郎、中畑惣助」の名を上げ、「右古城垣上者、中古各々雖居城、今荒敗而、其旧地耳(のみ)伝」と記す。これによれば、東目屋地区には、少なくとも桜庭・国吉・黒土・中畑の四つの城館が、戦国時代に存在していたことになる。さらに『封内事実秘苑』では、彼らのうち桜庭・黒土・蒔苗・大秋・中畑の五人が、大浦為信の津軽統一作戦において、「側衆十五人」のメンバーとして活躍したと記している。
 第三節大浦城跡の項で述べたように、岩木山麓から目屋地区にかけての地域は、西浜と津軽平野を結ぶ戦略的要地であり、十五世紀においてしばしば安藤勢と南部勢との激突の場となった。この地域の中小の城館は、そうした歴史の中で築かれたものであろう。そして戦国時代末期、大浦為信が南部氏からの独立を目指して行動を始めると、彼ら中小の領主(土豪)たちは、主君為信直属の軍事力を構成し、大浦氏直属軍団の有力メンバーとして活躍したことがうかがえる。