(3)城館の構造

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 国吉館は曲輪が一つだけの、いわゆる「単郭」の城館であるが、虎口の位置や地割の在り方から、図38に示した平場⑦の西側寄りの場所に中心施設(館主の屋敷)が置かれていたと考えられる。この中心部に入って行くルートは、次のようなものである。

図38 国吉館縄張り推定復元図

 まず、館の大手虎口はa地点にあり、そこは平場①と②に挟まれた場所である。通路の幅は一・八メートル、現在は石が敷かれ階段が設けられている。この大手虎口aを右に登り、平場③と④の位置で若干左折して登って行く。平場③と④は、出入りする人を監視する役割と、戦闘が始まった時には敵を防ぐ前線拠点となる場所である。続いて通路は平場⑦の正面で直角に右折し、さらに登って平場⑥(現在は稲荷神社が建立)に入る。そこはもう曲輪の内部であり、あとは平坦地を西に進んで、中心部に達している。

図39 国吉館跡の大手虎口と模式図

 もう一つ虎口と考えられるのがb地点である。しかし、この通路は中心部と見られる平場⑦に接近した場所であり、大手とするにはふさわしくない。この通路が城館期に存在していたとしても、搦手のようなものだったろう。
 館の北側は深い空堀となって、北の丘陵から分離しているが、この空堀の東の部分は自然の沢に手を加えたもので、その西続きの部分を掘り割って空堀としている。東側の堀跡h1部分は、幅は平均で一一・六メートルほど。その中に〇・七メートルほどの段差をほぼ等間隔に四か所設けている。これは堀を通って敵が侵入したとき、段差を登らせて前進を妨害するためである。この堀跡h1からh2に進むと、堀幅が六・八メートルと急激に狭くなる。この地点で曲輪の上の平場⑦との高低差は五・五メートルである。しかも、法面は垂直に切り落した状態に造られていて、容易によじ登ることはできない。堀跡h2からh3に進むと、堀は左に屈曲し、幅も六メートルとなる。さらに堀跡h4へと進んで行くと、今度は逆に右折し、上の平場⑦との高低差は九メートルにも達する。このように堀の幅を狭め、何度も屈曲させているのも、敵に対する防御のためで、敵の動きを狭い堀の底で封じ、頭上からの攻撃で殲滅しようとする工夫である。
 西側にある平場⑧と⑨は、防御と通路を兼ねた腰曲輪である。この平場⑧と上の平場⑦の比高差は五・五メートル、急な崖となっていて登ることは困難である。また、平場⑦の南東側の崖下には、「所従屋敷」を思わせる平場も設けられている。
 このように国吉館跡は、中世城館としては比較的単純な造りで、戦争に備えた城郭ではなく、領主が日常居住する平時の居館であったことは、こうした構造から見ても間違いない。しかし、北側の空堀の工夫や西側に設けられた腰曲輪など、要所には戦闘の際の防御を意識した工夫が積極的に取り入れられていた。
 なお、国吉館ではもう一つ、館跡の北西側に、堀跡h4を挟んで「武者溜」(出撃や防衛のために兵を詰めておく場所)状の遺構cがあることも注目しておきたい。現時点では調査不十分だが、国吉館跡北側の丘陵上部に城館跡らしき遺構があり、「山伏館」と呼ばれていることから、背後の丘陵に戦闘時に立てこもる山城(詰の城)があり、その山城との連絡通路を兼ねた遺構とも考えられる。