(3)城館の構造

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 坂本館は、東の「古館」、西の「新館」の二つで構成されていたと言われるが、古館の規模は、東西約七五メートル、南北約二九〇メートル。台地の先端を東西に走る二本の空堀で区画して、Ⅰ~Ⅲの三つの曲輪を設け、曲輪Ⅰ・Ⅱの東側に一段の腰曲輪⑨⑩、曲輪Ⅰの南側に何段もの腰曲輪を設けたものである。このうち主曲輪と考えられるのが、最も南にある曲輪Ⅰの部分で、面積も広く、周囲の腰曲輪の造りも立派である。
 この主曲輪に入る大手虎口と推測されるのがa地点である。通路は、aから曲輪Ⅰ西側のbに出て、北に進み、cから曲輪Ⅲに入る。曲輪Ⅲの東側には遺構d(土橋?)があり、dを通って曲輪Ⅱに入る。さらに曲輪Ⅱと曲輪Ⅰの間の空堀iを渡り、曲輪Ⅰに入ったと考えられる。また曲輪Ⅰの西側中間部にはくびれた場所があり、東続きにはくぼんだ溝状遺構gが見られる。この部分には曲輪Ⅰ内部を二つに区画する溝が存在していた可能性がある。この溝跡gを越えた南が坂本館の中心部である。
 以上の通路の途中には、敵の侵入を防ぐために、さまざまな防御の工夫がなされている。まず大手虎口aを入ると、平場①と②が虎口を守るように向い合っている。両者の幅は約二メートル、平場①と通路との高低差は二~三メートルである。そこを進み、平場③と平場④⑤の間を登って曲輪Ⅰの前に出る。平場⑤には現在土塁状の遺構hが見られるが、城館に伴う遺構かどうか判断が難しい。さらに通路は緩く左折し、帯曲輪状の平場⑥と曲輪Ⅰとの間の堀割状の部分に入る。平場⑥は高さ三メートル。通路をにらむ格好でそびえ、敵に対する有力な防衛地点をなす。
 右の最初の関門を過ぎて、通路は曲輪Ⅰ西側のb地点に出るが、そこで先に述べた曲輪Ⅰのくびれた場所に突き当たる。このくびれの地点は通路を遮るようになっており、「横矢がかり」の役割を果たしていたと思われる。b地点での曲輪Ⅰの上面と通路との高低差は四・四メートルと高く、法面も垂直に近く切り落されている。複雑な防御施設が確認できるのはここまでで、b地点を過ぎた先には、左側に数段の段築が見られるが、これは後の耕作に伴うものであろう。
 遺構cから曲輪Ⅲに入る通路は確認できない。曲輪Ⅲと曲輪Ⅱを区画する空堀跡jは、現在ではかなり埋まっており、幅は一四メートル、深さが一メートルほどである。曲輪Ⅱと曲輪Ⅰの間の空堀跡iは良好に残っており、幅は九・四メートル、深さは現状で約二メートルあり、途中で屈曲して見通しが利かないようになっている。また中間部には木橋を設けた跡と考えられる遺構e・fがある。
 このほかにも、大手虎口から右に進み、曲輪Ⅰ南側の何段にも築かれた腰曲輪を通って直接曲輪Ⅰに入る搦手虎口の存在が想定されるが、リンゴ園造成による地形の改変が激しく、旧状を復元することはできない。しかし、ここに数多くの腰曲輪が設けられていたことは確実で、それはこの館にとって何よりも南方に対する攻撃と防御が重要であったことを示している。そして、坂本館が東目屋盆地の東端にあること、すぐ南を旧目屋街道が通っていることから、目屋地区の交通路掌握を最大の目的として、この坂本館が設けられたのではないかという可能性が浮かび上がってくる。

図42 坂本館跡の現状写真と摸式図(古館地区)
南から見た坂本館跡(古館)


坂本館跡と岩木山(高野集落南東の丘陵から)


古館の大手虎口と腰曲輪


空堀跡j


空堀跡i

 そのほか、この坂本館(古館)には多くの謎がある。曲輪Ⅰの中にある遺構k・lのように、何のための施設か判断が難しく、建設途中で放棄した遺構ではないかと思われるものがあること。第二に、東目屋地区のほかの城館に比べて規模が格段に大きいにもかかわらず、館主の名が伝えられていないこと。第三に、東目屋の城館の多くは館と集落がセットになっているのに(例えば国吉館)、この館では対応する集落がないことなどである。これらのことから、坂本館は、軍事的緊張の中で急ごしらえで造られた城館であり、しかも、完成して十分に機能を発揮する前に、なんらかの事情で廃棄されたということも考えられてくる。
 また、古館の西に「新館」があるが、縄張り図からも明らかなように、城館に伴うと思われる遺構は三か所(図40、①~③)しか確認できない。土地所有者の話でも、館跡であったという話は聞いたことがないという。城館として利用しようとした可能性はあるが、仮にそうであったとしても「未完の城館」に終わったものと理解すべきであろう。