五 東目屋地区の中世城館の特徴

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 一、二でも述べたように、東目屋地区は弘前市内でも特に中世城館跡が密集した地域である。しかし、その理由については、これまで一般には、「当市内でも有数の歴史を誇る地域」であるからということで、済まされてきたように思う。
 だが、今回の調査を通して浮かび上がったのは、大浦氏が本拠とした大浦城との関係であり、さらに、この地が津軽平野と西浜との間の交通路を押さえる戦略的要地であったことだった。先に述べたように、十五世紀、東目屋周辺の地域では、下国安藤勢と南部勢との合戦がしばしば行われた。享徳二年(一四五三)に安藤義季が敗死したとされる「狼倉館」は、東目屋盆地のすぐ北の岩木山麓にあり、また東目屋盆地の東にそびえる高館山にも高館城跡が残り、安藤勢が立てこもったと伝える。しかも、大浦城から目屋に向かう旧目屋街道は、この高館城跡の直下を通っていて、高野館跡(城館というより、切通しを設けて街道を押えた関所のような施設か)の場所から、坂本館跡の南を経て東目屋盆地に入っている。坂本館から北に向かえば、そこは狼倉館のあった場所である。「十二人屋形城衆」の伝承も、こうした立地条件から考えれば十分に現実性のあることと言える。
 東目屋の城館群の中で中心的な役割を果たしたのは、館主の伝承や城館の構造から見ても、国吉館だったに違いない。この国吉館は、この地を本拠とする領主関氏の日常的な居館であり、戦闘の際に逃げ込むための施設を背後の山に設けていた(「山伏館」と伝えられるもの)。こうした平時の居館と「詰の城」がセットになっているのも、東目屋では国吉館だけである。これ以外の城館は、坂本館を除き規模も小さく、しかも集落に隣接して設けられている。これらの館は、それぞれの村を本拠とする土豪クラスの領主の居館だったと考えてよいのではないか。そして、彼らは国吉館の館主関氏を盟主にしつつ、大浦氏の「側近」としてその直属の軍事力を構成したのであった。

図43 坂本館跡の現状写真と模式図(新館地区)


図44 大浦城周辺及び東目屋地区の城館分布

 坂本館の存在は、こうした東目屋地区の歴史にある時点で一つの変動が生じたことを暗示している。それがいつのことで、どのような変動だったのか、この館の館主は誰だったのか等々、現時点では具体的にしがたいが、『封内事実秘苑』の文禄四年(一五九五)の条は、津軽為信の重臣(三家老の一人)兼平中書が「目屋の澤在城之処、館前へ引移」ったことを、また慶長二年(一五九七)の条にも、「公御威勢盛ニ相成、目屋澤・国吉・相馬・五所・湯口・獨狐・宮館等、諸方の小館不残御家臣ニ相成、御郡中一円平均ニ相成候」という記事を載せている。中世後期、東目屋盆地の入口一帯が「目屋ノ澤」と呼ばれていたらしいことから(「津軽郡中名字」)、この「目屋澤館」こそ問題の坂本館であった可能性があり、そこから、為信の津軽統一戦の過程での重臣兼平中書(本貫は岩木町兼平の地か)の目屋沢館(坂本館?)入部と、目屋地方掌握の強化、統一終了後における彼ら家臣たちの独立の否定、城館群の破却、という事態も想定されてくる。そうした問題も含め、東目屋地区全体の城館の詳細については、今後の研究課題であろう。