一 乳井茶臼館の立地と現状

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 乳井茶臼館跡は、弘前市乳井字茶臼館・岩ノ上。乳井集落の南に接し、弘前市と大鰐町の境をなす山地から北に伸びた尾根の先端、標高一一〇メートルほどの丘陵を利用して造られた城館である。この地は、平川・六羽川(ろっぱがわ)を挟んで西の石川城と向かい合う場所であり、石川と同様、津軽平野の南の関門をなす。しかも、館の直下を中世の「奥大道」=近世の「乳井通り」が通過する要衝の地であった。
 茶臼館のある丘陵は、「乳井通り」が平野の内部へと入るのを遮るようにそびえており、この地にある中世初期以来の歴史を持った有力寺院・乳井福王寺(現在の乳井神社)と門前集落(「寺内」という)を、南方から守る障壁となっている。また丘陵の西は台地となって続き、先端は約一五メートルの崖となって、平川の支流・六羽川に臨んでいる。六羽川は現在でこそ単なる用水路にすぎないが、近世の記録には「堀越川」(平川本流)と並ぶ河川として記されており、地形の状況(扇状地や自然堤防の発達状況)から判断して、もとは平川の有力な派川(分流)であったに違いない。
 乳井茶臼館の規模は、東西一〇〇~二〇〇メートル、南北三〇〇メートル。城の一部と思われる西の台地の部分を含めても、城郭としてさほど大きくはないが、右のような戦略的要地を占めているだけに、合戦の際の「砦」として非常に重要なものであった。館は、丘陵の先端を掘切り、さらに斜面を同心円状に何段にも削平して平場(腰曲輪)を造るという、典型的な「茶臼館型」の城館である。しかしながら、現在は頂上の部分が公園に、一部が墓地となっているほかは、大部分がリンゴ園として利用されているために、耕作による地形の改変を受け、遺構の判断が難しくなっている。
 また、この乳井茶臼館の北には、中世において福王寺・極楽寺・地蔵堂などの堂塔が並んでおり、堂塔を囲むように、福王寺北方の丘陵に乳井古館(壬館(みずのえだて))が、その北の台地には乳井城(乳井新館・大隅館)が、構築されていた。今回の調査では、茶臼館以外の城館については概略の紹介にとどめざるをえなかったが、中世乳井地区の歴史の解明のためには、今後これら二つの城館の調査・研究が不可欠である。

乳井茶臼館跡の遠景
北西側より撮影


南西側より撮影


図45 乳井茶臼館跡周辺の城館跡位置図


乳井茶臼館跡周辺の航空写真(昭和40年代撮影)