四 城館の構造

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 推定復元される乳井茶臼館の縄張りを示したのが図47である。従来、この館は曲輪Ⅰ部分だけで考えられてきた。しかし今回の調査の結果、曲輪Ⅰの西側台地にも城館に伴う遺構らしいものがあることが分かり、この部分(曲輪Ⅱ)を含めて城館の構造を考えることにした。

図47 乳井茶臼館縄張り推定復元図

 まず曲輪Ⅰ(図48)から見てゆく。曲輪Ⅰの中心部は丘陵の頂上にある平場①で、ここが戦闘の際の指令部となる。この館の大きな特徴は、曲輪Ⅰの全体を南の山地から切り離している堀切n以外には(この堀切も小規模である)、堀や土塁がなく、丘陵の斜面に小さな平場(腰曲輪)を何段も設けていることである。そして、この平場が、頂上の指令部(平場①)を中心に、同心円状に斜面を取り巻き、館を攻撃する側は、麓(ふもと)から腰曲輪を何段も登って行く構造になっている。しかも、館の内部には、頂上部分とその周辺を除いて、建物が建てられるような平坦地はほとんどない。このことから乳井茶臼館は、居住機能を持たない、純然たる戦闘用の砦と言ってよいであろう。

図48 乳井茶臼館縄張り推定復元図(曲輪Ⅰ部分拡大)

 では、曲輪Ⅰの中枢部に達するには、どのような通路を通って行くのだろうか。館の大手虎口と考えられるのが北端のa地点である。茶臼館のある丘陵は、中枢部が置かれた山頂(標高一一八メートル)から、北に細長く尾根が伸びて、a地点で終る地形となっているため、中心部への通路はこの尾根の上を登ることになり、その間にさまざまな防御のための工夫がなされている。
 まず、大手虎口aは平場②と③の境を通る形で設けられ、幅は一・四メートルある。③は②よりも一段高く、通路はこれに遮られて右に折れ「枡形」状の通路になっている。平場②から④へは緩いスロープ状となっていて、b地点を通り、虎口cに向かったものと思われる。しかし残念なことに、cへの通路が存在したと思われる部分が、土砂採取により消滅してしまっていた。この消滅した部分を通り、虎口cを入って、平場⑧に進入したのであろう。虎口cは、幅が一・八メートルほどであるが、壮大な感じを与える場所である。現在は平場⑤⑥⑦が墓地として利用され、この中を通って平場⑧に入るが、資料(1)の分限図ではbからcの道が主要通路として記されていることから、この道は、後世、墓地を作る際に設けたものと考えた方がよい。
 平場⑧を過ぎると、d地点を通って、平場⑩に入り、さらに遺構e・遺構fへと進む。ここで通路は、高さ三・六メートルの腰曲輪mに正面を遮られる。現在は、直接この腰曲輪mを登って頂上に達する道路が造られているが、中世城館の通路としては不自然であり、もとは腰曲輪mの裾を回って、右方向へ進んだのであろう。その先には遺構gがあり、さらに先には〇・五メートルほどの段が数か所設けられている。この段は、戦闘時に重い甲冑を着た敵兵の前進を妨害するためのもので、中世城館特有の工夫である。そこを過ぎると虎口hに達し、ここで通路は大きく左に折れて、腰曲輪に設けられた坂を登る。その数メートル先に遺構i、さらに先に遺構jがある。この間、通路は腰曲輪をジグザグに登って行くように造られている。このように、中心部に近づくにつれて通路も複雑になり、しかもこの付近では、腰曲輪も四~五メートルの高さに築かれている。丘陵頂上の平場①(中心部)への出入口は、南側lと北側kの二か所があった。
 以上が大手虎口からの通路だが、このほかにも、茶臼館の東麓から平場⑪⑫⑬を通り、平場⑨に出て、平場⑧へと入って行くルートがある。これは東麓にある福王寺門前集落との連絡通路であろうか。
 中心部である平場①の南東には、平場⑭⑮⑯があり、さらに堀切nとの間には、一段低い平場⑰が設けられている。この平場⑰は、あまり削平されていないが、広い面積を持つ平場で、南東方面を防御する性格を持つものと考えられる。ただ、丘陵の斜面を削平して何段もの平場を設けているのは、中心部(平場①)の東・西・北側と、大手虎口aに通じる北の尾根の部分だけであり、平場⑰の周囲には、ほとんどそうした手は加えられていなかった(現在見られる平場はリンゴ園の造成によるものである)。

図49 乳井茶臼館跡(曲輪Ⅰ)の現状写真と模式図

 さて、ここまで曲輪Ⅰ全体の構造を見てきたが、館の性格を考える場合、最も問題となるのは、曲輪Ⅰの西側直下を「乳井通り」旧道(中世の奥大道)が通っていることであろう。この結果、街道は文字どおり館の真下にあり、絶好の攻撃対象となる。こうした立地から考えれば、乳井茶臼館が街道を押さえる「関所」としての性格を持っていたことは確実と言ってよい。そして、曲輪Ⅰ西側に造られた遺構o・p・qと、西に続く台地に設けられた曲輪Ⅱの部分が、非常に注目されてくる。
 茶臼館西側の斜面には、小さな道路(遺構p)がある。調査の当初、この道路は、リンゴ園に入るために造られたものと考えられた。しかし、茶臼館のある丘陵は、遺構qの部分で大きく西に張り出して、見通しを遮っている上に、街道を挟んだ西側には土塁状の遺構qがあって、柵を巡らせば通行を遮断できるようになっている。また、通路pに続く斜面の中腹には三メートル四方の小さな平場(遺構o)が設けられ、この地点で通路pは前方を遮られる。遺構oと上の平場⑳との比高差は四メートルほどであり、容易に登ることはできない。これは遺構oが敵に占領された場合を考えた造りであろう。南には、街道に沿って平場21 22も設けられている。街道と平場22との比高差は四メートルである。
 曲輪Ⅰ西側のこうした構えは、西の台地に設けられた曲輪Ⅱによって、さらに強化されている。曲輪Ⅱのある台地は周囲の水田との比高差が五~二〇メートルほど。乳井通りの旧道は、この台地に突き当たり、右折した後に、緩い坂(「六段坂」という)を登って茶臼館の直下へと向かうが、その途中には、いくつかの段築や平場(30 31 33 34)が造られており、街道を通る敵に対して兵を配置した施設の跡を思わせる。ただ、これらの平場は、リンゴ園の造成に伴って造られた可能性もあり、従来、城館に伴う施設とは見られなかった。しかし明治時代の分限図には、これらの平場が記されており、一つの仮説として、街道を西から挟む曲輪Ⅱの存在を考えてみた。

図50 乳井茶臼館縄張り推定復元図(曲輪Ⅱ部分拡大)

 曲輪Ⅱが存在したとすれば、その中心部は平場38であろう。ここに立てば南の八幡館方面を一望でき、街道を進んでくる敵の動きは手に取るように分かる。この平場38に入るには、曲輪Ⅰ西側の遺構qの辺りから、平場35を通り、36 37 38と進んだと思われる。ただ、途中には腰曲輪と思われる36 37以外に遺構はなく、中心部と見られる平場38もまた、ほとんど整地されていない。したがって、もし曲輪Ⅱが存在したとしても、それは乳井茶臼館の「関所」としての機能を強化するために、合戦の際に臨時に構築された施設であったのかもしれない。