五 乳井地区の城館群と宗教的領域

546 ~ 551 / 681ページ
 二で述べたように乳井茶臼館を築いたのは、戦国時代に乳井を本拠とした乳井福王寺玄蕃であったらしい。その居城は、はじめ乳井古館にあり、のち乳井城(乳井新城)に移ったと伝えられる。また玄蕃は、乳井福王寺の別当職にあり、猿賀深沙大権現の別当職も兼ねていた。『津軽一統志』によると、乳井福王寺は、承暦二年(一〇七八)、白河天皇が「東夷調伏」のため毘沙門天を安置し、勅願によって開いた「東奥無双ノ霊場」であり、当初は現在の乳井字古堂(茶臼館の南)に伽藍(がらん)があったが、後、乳井字外の沢の現在地に移ったという。乳井氏は、いわば「宗教領主」としての性格も持っていた。乳井地区全体の遺跡を記した図51から分かるように、茶臼館・古館・乳井城は、いずれも聖地である乳井神社、つまりもとの乳井福王寺と、供僧たちが居住する門前集落「寺内」、さらにかつて地蔵堂・南蔵坊などの堂塔があったとされる上乳井集落(近世の上乳井村)とを囲むように分布している。これは、こうした霊場としての乳井の歴史と、乳井氏の宗教領主としての性格からくるものであろう。

図51 乳井地区の中世城館と寺社・集落の分布

 興味深いのは、近世の「乳井通り」=中世の奥大道が、この聖地・乳井の内部に入ることなく、茶臼館の場所から段丘の下に降り、寺内・上乳井の集落を避けて北上していたことである(現在の県道は明治二十二年に造られたもので、旧道は「下道」と呼ばれる)。そして、街道から「寺内」内部へ入る地点には、かつて「仁王門」が立ち、今でも二基の板碑が存在する。明らかに「寺内」地域が〝結界の地〟とされていた名残である。また、西の石川方面から来る道も、仁王門の先で街道に合流し、「寺内」には入らない。石川からの道と街道が合流する地点には、あたかも通行人を監視するかのように、「寺屋敷」と呼ばれる曲輪状の平場が設けられている。

乳井茶臼館跡周辺の遠景(下図とほぼ同地点より撮影)


『青森県南津軽郡石川町郷土史』より転載


旧乳井通り(中世の奥大道)の現状
乳井神社参道入口(仁王門跡)
2つの板碑が向い合って立つ


乳井城跡西下より茶臼館跡方面を遠望


乳井集落下

 さらに注目すべきことに、乳井地区全体を見下ろす福王寺背後の丘陵の頂上には、中世前期の板碑や五輪塔が林立し、しかも、この聖地ともいえる場所に、乳井氏の本来の居館「乳井古館」が構えられていた。福王寺玄蕃が新城としたという「乳井城」もまた、乳井の台地の北端に設けられ、南の茶臼館と同様、館の西側直下に街道を通して、北からの敵の侵入を防ぐ構えとなっている。もとより、乳井茶臼館は合戦に備えた砦、乳井城は三つの曲輪を持つ平時の居館であるが、単に霊場福王寺の周縁部に城館を設けたというだけでなく、地形や交通、軍事的要因を十分に考慮した配置となっていることが明瞭であろう。そして、以上の宗教的・軍事的二つの意味において、これらの城館は、福王寺や「寺内」を中心とする乳井の地域を防衛していたのである。
 中世社会においては、寺社の境内は世俗権力の介入を許さぬ一種のアジール(治外法権領域)をなしていたことが多い。そして、それが都市や集落に拡大されたのが「寺内」であり、最も有名なのが一向宗寺内であった。乳井地区の「寺内」は近世の呼称であるが、これまで見てきたようなこの地域の街道の配置、寺社の分布、城館の構築の在り方は、津軽地方の乳井においても、特種領域としての「寺内」が存在していた可能性をうかがわせる。そして、天正七年(一五七九)、津軽に侵攻した檜山勢が乳井地区を占領し、この地を基地として駐屯したのも、『津軽一統志』や『封内事実秘苑』の説くように、大光寺城や沖館で進撃を停止させられた結果のやむをえない措置ではなく、「寺内」乳井の特殊な性格や、その機能に注目してのことだったのではないだろうか。
 そもそも乳井茶臼館は、戦闘用の小規模な砦であり、とうてい、檜山安東氏の軍勢全体が駐屯できる場所ではない。この意味でも、〝「比山勢」が「乳井茶臼館」に立てこもった〟という『一統志』などの記事は、相手を過少に見積もろうという文飾があり、天正七年の事件を正確に伝えているとは言えないであろう。こうした問題も含めて、戦国時代の乳井の歴史の解明もまた、今後の課題である。