この鐘は、もと藤崎にあった護国寺に寄進されたもので、銘には執権北条貞時の法名「崇演」の文字が含まれている。藤崎は、得宗領を管理した安藤氏の拠点であり、北条氏の所領維持政策と結び付く文化財と考えられる。また、「施錢檀那見阿弥陀佛」の後に、沙弥道暁・沙弥行也・平高直・安倍季盛・丹治宗員など一四人の名が記されているが、彼等の多くは在地の有力者と見ることができる。安倍季盛が、安藤氏を代表する人物だったことは言うまでもない。また、平高直・平経広・沙弥道性は曽我氏、丹治宗員は鹿角地方(秋田県)に地頭職を持つ御家人の一族と推定される。源光氏は中別所の正応元年(一二八八)銘の板碑にも名前を刻んでいる「高椙郷主」である。藤原宗直・宗氏は平賀郡乳井郷(弘前市乳井)の福王寺に関係した小川(河)氏と考えられている。
板碑が寄進された十四世紀の前期には、安藤氏の内紛がしだいに表面化し、やがて津軽大乱(一三二二~二八)へと発展した。また、北条氏の得宗専制が強大化し、その面からも地方の御家人、御内人(みうちびと)対策が必要だった時代と考えられる。嘉元四年の銘を持つ銅鐘の寄進には、このような背景があると推測される。ともあれ、この銅鐘は鎌倉時代末期の津軽地方の勢力関係を示す重要な金属資料である。
「嘉元鐘」が寄進された護国寺は、藤崎町藤崎の北西にあった。この寺は、北条時頼が愛妾「唐糸御前」の供養のために建立したと伝えられ、付近には五輪塔や板碑も残されている。護国寺は後に満蔵寺となり、慶長年間(一五九六~一六一五)、弘前藩の寺院政策により西茂森町の禅林街に移され、現在護国山万蔵寺となっている。なお、「嘉元鐘」は長勝寺を中心とする禅林街の形成に伴い同寺に移されたと推定される。
「嘉元鐘」は、鎌倉円覚寺の鐘と姉妹鐘であると伝えられてきたが、銘文の一部が同じだけで大きさも違い、伝承をそのまま信じることはできない。また鋳造された場所も分かっていない。なお『津軽俗説選後拾遺』には、「沈鐘伝説」と「十三湖底の鐘」の二つの項があり、「嘉元鐘」にまつわる伝承を紹介している。安政六年に、小山内清隆は『津軽事実考』を著し、その中でこの鐘の考察をしている。一方、松平定信が編んだ『集古十種』にも掲載されており、江戸時代後期には日本の名鐘の一つとして全国に知られるようになった。
鎌倉時代末期に鋳造され移入されたこの鐘は、得宗専制体制の維持や、津軽地方の御家人・御内人の動揺を押さえる目的を持っていただけでなく、現代人に至るまで美しい音色を響かせ、ふるさとの名鐘としてたいせつにされている。