第二節 五輪塔

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 五輪塔は、平安時代後期に密教系の石塔として出現し、やがて宗派を越えて造立されるようになった。この塔は、下方から方形の地輪、球形の水輪、三角形の火輪、半球形の風輪、宝珠形の空輪を積み上げた石塔で、石造遺物の中では最も一般的でよく知られている。五つの石は、仏教の五大思想の教えによる宇宙観を示している。五輪塔は日本において造られたが、最古の石造五輪塔は、中尊寺釈尊院墓地にある仁安四年(一一六九)の造立で、この時点で奥州地方まで五輪塔造立の風習が広がっていたことが分かる。津軽地方における中世の主な五輪塔の所在地を挙げると次のようになる。
 弘前市乳井の乳井神社墓地、平賀町広船、尾上町金屋、浪岡町吉内(きちない)・北中野など津軽平野東部の道筋に多く残り、その先は、鶴ヶ坂、大豆坂(まめさか)を越えて青森市油川と横内地区へと続いている。この線上の五輪塔の中には大きなものが多く残存する。もっとも、浪岡町の吉内・北中野地区の五輪塔には、小型の一石五輪塔も含まれている。もう一つの分布ラインは、藤崎町の唐糸塚・昭伝寺墓地、中里町中里五林神社の御神体、市浦村十三及び磯松を結ぶ地域である。平泉まで来た五輪塔の文化は、奥大道を北上し外ノ浜へ、また下之切道を通り十三湊まで続いていたと考えることが可能である。もっとも、ほかの地域に存在しなかったという確証はなく、風化してしまった五輪塔もあるだろうから断定することは困難である。
 これらの五輪塔の分布を視点を変えて見直すと、乳井福王寺の勢力や藤崎・十三の安藤氏、浪岡御所北畠氏、浅瀬石城の勢力など、中世の津軽史を彩った武将の姿をかいま見ることができる。
 弘前市内の五輪塔は、前述の乳井神社に大型で鎌倉時代までさかのぼり得るものが一基現存する。なお、乳井神社は福王寺の後身である。また、岩木川・平川の合流点に近い三世寺や中崎にも分布していた。市街地では、新(あら)町の龍泉寺前庭及び本堂に小型の五輪塔が安置され、その内の二基から「天文」の年号が読み取れる。龍泉寺の五輪塔は、岩木町駒越から移されたもので、福島正則一族の墓と伝えられている。

龍泉寺前庭の五輪塔

 津軽地方の五輪塔に関心を持ったのは、江戸時代後期の津軽を歩いた菅江真澄である。この時期から、津軽地方の石造遺物の調査が本格化した。嘉永七年(一八五四)八月、下之切道を旅した岡本青鵞は、旅の記録『中通』の中に五輪塔・宝篋印塔の絵を記しているが、弘前市内に関する描写はない。明治以後、研究は一段と進み、昭和二年(一九二七)中村良之進は『陸奥古碑集』をまとめ、その中に明治から大正にかけて調査した五輪塔を記載している。同書によると、昭和初年の弘前市内の五輪塔の残存状況は、次のとおりである。

岡本青鵞『中通』(弘前市立図書館蔵)に描かれた中里村五林(現中里町)の五輪塔と宝篋印塔

 和徳町武田氏地所      水輪
 三世寺神明宮疱瘡神の堂内  風輪・空輪
 中崎字川原田(俗称五輪)の畑 火輪・地輪
 高杉八重の森        地輪
 乳井字外ノ沢        地輪・水輪・火輪
 以上のうち乳井の五輪塔を除くと、造立の時期を中世と即断するのは困難なものが多い。なお、現在では、『陸奥古碑集』に記載されている石造遺物の残存状況を確認することは、極めて困難になっている。「巴御前の墓」という伝説を持つ中崎の五輪塔は、太平洋戦争中に失われたという。また、高杉の八重の森の五輪塔も確認できない。こうして見ると、『陸奥古碑集』の記述は後世に残された貴重な記録ということができる。左に掲げた一覧表は、『青森県中世金石造文化財』を基礎に補足・訂正した。

『陸奥古碑集』に見える五輪塔
二(右上)は中崎,七(右下)は高杉八重の森,十一(左)は乳井の五輪塔