一 板碑の概要

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 弘前市内に残る金石資料のうち、最も多いのは板碑である。種子・年代・人名・経文・造立の事情などが碑面から読み取れるほか、石碑に刻まれた様式から、文化の受容の状況や造立者の信仰のありさま、信者の動き、在地勢力の活動などさまざまな事象を考察することができる。一枚の板碑が史料として貴重であると同時に、現存する板碑を総合的に考察すると、中世史料の少ない津軽地方におけるさまざまな事象を示唆してくれる。本節では弘前市内の板碑だけでなく、津軽地方に分布する板碑も掲載することとした。なお板碑の内容の分析については、『通史編』で扱うことにし、基礎的な事柄だけを取り上げることにしたい。
 板碑は、「板石塔婆」「青石塔婆」とも呼ばれる石碑である。故人の供養のほか、造塔者の来世の幸福を願って生前に造塔して礼拝する、いわゆる「逆修」を目的として造立されたものもある。
 全国的視野で見ると、最古の板碑は埼玉県大里郡江南町須賀広にあり、嘉禄三年(一二二七)に建立されている。埼玉県には古い板碑が多く、ここから全国に広がったという見方が強い。「青石塔婆」の名は、秩父地方から産出する薄い板状に割れ細工しやすい「緑泥片岩」を使用していることによる。板碑の造立は、室町時代に入ってからも盛行した。時代が下ると、僧侶や豪族が造立した鎌倉時代と違って石碑は小型化してゆき、碑面から庶民の信仰が読み取れるようになってゆく。なお、板碑の造立は近畿・四国・九州方面や東北地方まで広がった。

慈光寺の板碑
(埼玉県比企郡都幾川村西平)