二 青森県の板碑分布

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 県内で最も古い板碑は、弘前市鬼沢字二千苅にある文永四年(一二六七)の板碑である。年代的に見て新しいものは室町時代に及んでおり、応永年間が一応の下限となっている。十五世紀から十六世紀にかけての津軽地方では、他の地域と異なり板碑の造立は停止状態になっていたと推定される。しかし板碑の影響は、江戸時代前期の墓石にも見られる。また、岩木町一町田にある仏像を刻んだ石碑には、中世後期の人物のため造立したという伝承がある。この碑を含め、十五・十六世紀の板碑について今後さらに調査と研究が必要である。
 青森県内の板碑は、津軽地方に圧倒的に多く見られる。実地調査で確定できた数は二八四基余(大鰐町三ッ目内や弘前市乳井古堂・国吉には確定不能の板碑がある)、そのうち弘前市内の板碑は一三三基余となっている。なお、県南地方には、十和田市大不動字平山に正平十三年(北延文三-一三五八)二月四日の板碑があるだけである。もっとも三沢市の玉泉寺、七戸町字町の青岩寺などにも板碑が保存されているが、他の地域からの移入であり、古くから存在したものではない。

十和田市大不動平山の板碑
阿弥陀三尊の種子を上部に,下部には経文と年号を刻む。郭線あり。

 津軽地方の板碑は、碑面の特色や造立の年代から大きく二つの地域に分けて考えることができる。その第一は岩木川と平川の合流点、藤崎町藤崎と弘前市三世寺を北限とする平川・浅瀬石川の流域、黒石~大鰐を結ぶ東根の山麓地方及び岩木山麓の西根地方、言い換えると津軽平野内陸部に相当する。
 第二の分布地帯は西海岸地方で、深浦町から鯵ヶ沢町・市浦村にかけてである。なお、青森湾岸には青森市内に二基あり、そのうち石江神明宮の板碑は、菅江真澄の写生画が正しいとすれば第一の分布地帯の延長線上のものと考えられる。もっともこの板碑は、摩滅が激しい上に近年「山ノ神」と刻み込んだこと、菅江真澄の描写にも信じられない点があり、板碑と断定するにはやや不安を感じる。宮田念心寺の板碑は、碑面の構成から西海岸の色彩が強いが、正応四年(一二九一)の板碑の存在を記す記録もあり、内陸部の影響を否定できない。

菅江真澄の描いた神明宮と板碑
(『栖家能山』秋田県立図書館蔵)

 板碑の分布状況を別の観点から考察してみたい。多数の板碑が存在する地点は大鰐町三ッ目内、弘前市乳井、弘前市国吉、弘前市中別所、深浦町関、深浦町北金ヶ沢などである。これらの板碑群の多くは一か所にまとめられているが、往時は付近一帯に散在していたのである。
 一方、まばらに分布している板碑もあり、この場合他の地点から移されてきた可能性がある。現在は、板碑分布の空白地帯になっているが、浅瀬石城の周辺には板碑があったと考えられる。弘前八幡宮境内に残る板碑は、浅瀬石城のあった黒石市高賀野から移された大善院に関連するものである。このほか、『陸奥古碑集』は付近にもう一基の板碑があったことを記録しており、さらに浅瀬石字中屋敷にも数基あった旨を記している。

浅瀬石にあった板碑。種子に「バン」を刻む(『陸奥古碑集』所載)

 浅瀬石城の存在は、大浦(津軽)為信の統一の時点に焦点が置かれることが多かったが、板碑はこの城と周辺の集落に長い歴史のあったことを推測させてくれる。このような例はほかにも多い。
 赤石川流域の日照田には三基の板碑があるが、『陸奥古碑集』は赤石の松源寺にある三基も日照田から移したことを記している。また、現在種里城跡「光信公の館」の前にある二基の板碑は、もと〝ホケチョの坂〟(法華経の坂)にあったものを、牛島の共同墓地に移し、さらに現地点に安置したものである。〝ホケチョの坂〟は板碑がある日照田と赤石川を挟んだ向かい側の高地で、信仰上日照田と密接な関係にある土地と考えられる。なお『陸奥古碑集』は、日照田にはほかにも板碑もあったことを記している。日照田には大きな館跡があり、板碑はこの館と関係が深いと推測することもできる。
 板碑は、津軽地方内陸部のうちでも平川・岩木川流域に多く、浅瀬石川流域以北の常盤村・黒石市北部・浪岡町からは発見されていない。田舎館村には二基の板碑が現存するが、平川の東岸大袋の板碑は平川水底から発見されたと言われている。大水の際流されてきたものと推定され、古くからあるのは一基だけである。これらの地域には当初から板碑がなかったのか、あるいは人為的に埋没されたものかは、今後の研究課題である。