三 板碑の造立者とその時期

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 津軽平野内陸部の板碑は、十三世紀後半から十四世紀前期にかけて造立されたものが多い。これに対し西海岸地方の板碑は、一三四〇年以降に造立されている。また、津軽平野内陸部でも、大鰐町や弘前市乳井・国吉などには鎌倉時代に造立されたものが多い。一方、岩木山東麓の弘前市中別所の板碑は、弘安十年(一二八七)から応永四年(一三九七)にかけて造立されており、碑面に見える高椙郷主源一族の、板碑信仰の長さを知ることができる。この板碑群に含まれ、国の重要美術品に指定されている正応元年(一二八八)七月造立の板碑には、「源光氏」の名が刻まれている。源光氏の名は、長勝寺の「嘉元鐘」にも刻まれており、板碑から在地の豪族の活動を知ることができる。
 また、弘前市国吉の板碑は、刻まれている年号から一三一〇~二〇年代に造立されたものが多く、比較的短期間で板碑の造立は終わったものと推定される。鎌倉時代末期に目屋地方を知行したのは工藤貞祐だったが、建武二年(一三三五)には別系と考えられる工藤貞行の所領となり、さらに正平十五年(北延文五-一三六〇)には貞行の外孫である南部薩摩守(信光)の手に移っている。国吉の板碑群は、領主の交代とどのようにかかわっていたのだろうか。これらの板碑は、工藤貞祐の時代に造立されたことは事実と推測され、南部氏の手に移ってから見捨てられたと考えることもできる。県南地方に板碑が少ないことは既に述べてきた。津軽平野内陸部の北辺でも確認できる板碑は少ない。板碑を造る石材の供給地から離れていることも原因の一つに推定されるが、この地域が室町時代の早い時期に南部氏の手に移ったことを原因の一つに挙げることは不可能だろうか。南部氏は板碑信仰に関心が薄く、もともと板碑文化があまり流入していなかった県南地方では、室町時代に入っても板碑信仰の発展を見ることがなかったのではなかろうか。南部氏が津軽で知行した地域では、板碑はしだいに忘れられ、新規の造立もないまま、埋没していったと見るのは危険であろうか。
 後年、南部氏に追われた藤崎の安藤氏の場合、勢力圏と考えられる地域の板碑造立は、一三〇〇年代に入ってから行われている。安藤氏と関係が深い藤崎城域や三世寺に分布する板碑は、一三一〇年代から五〇年代にかけて造立されており、そこからは時衆(時宗の僧)の活動状況もしのぶことができる。安藤氏は中世のある時期に拠点を十三湊に移すが、それ以後、西海岸地方の板碑文化が盛行したのではなかろうか。深浦町関の甕杉下には安藤氏の別称「安倍」の名を刻む板碑が二基あり、安藤氏の活動状況を知ることができる。
 前述のように、津軽地方の板碑は応永年間を一応の下限としている。関東地方をはじめ他の地域での板碑造立はさらに続くが、津軽地方では意外に早く板碑信仰は終わっている。
 三世寺や和徳町の板碑から、板碑信仰が十四世紀に入ると庶民と結びついてきたことが分かる。しかし、板碑造立が十五世紀に入ると急速に衰えたことと、頂点を過ぎた安藤氏とこれを追う南部氏の抗争が激化し、やがて安藤氏は蝦夷島に退去したことが全く無関係とは言いきれないのではなかろうか。
 なお、津軽地方の板碑の記す年号は、弘前市和徳稲荷神社の板碑が刻む南朝年号「天授」以外は、すべて北朝年号である。