七 板碑の発見と保護の状況

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 青森県立郷土館が、昭和五十七年度から五十九年度にかけて県内の板碑を調査した際、津軽地方には二七四基余の板碑が存在することを報告した。弘前市内に限定すると一二一基になる。その後の十年間で、新たに発見された板碑は次の一五基である。なお、市史の調査と郷土館調査の板碑数は、三ツ目内などの板碑の数え方により一致しない。
 西津軽郡深浦町風合瀬(晴山) 二基
 西津軽郡深浦町関    一基
 西津軽郡鯵ヶ沢町舞戸町 一基
 弘前市中別所      一基
 弘前市国吉       一基
 弘前市境関       一基
 弘前市乳井       一基
 中津軽郡岩木町如来瀬  一基
 南津軽郡平賀町岩館   一基
 南津軽郡大鰐町宿川原  一基
 南津軽郡大鰐町三ッ目内 一基
 南津軽郡藤崎町藤崎   二基
 南津軽郡田舎館村二津屋 一基
 次に、中村良之進の『陸奥古碑集』に記載され、その後行方を確認できなかった板碑のうち、再確認できたものを挙げたい。ただし、所在地の変更、地名の誤り以外は省略した。
①弘前市高杉の宇気茂都大神の板碑は、工藤喜久雄氏屋敷内へ移転し、奥石神社として祭られている。
②弘前市高杉八重の森の断碑上半は、下高杉墓地で確認(山屋道朗氏の調査による)。
③弘前市独狐字松ヶ沢石仏の二基は、字笹元の木村喜代彦氏宅地前庭に祭られている。
④大鰐町(当時蔵館村)蔵館の二基のうち、一基は大円寺墓地へ移されている。他の一基は行方不明。

現在行方不明になっている大鰐町蔵館の板碑(『陸奥古碑集』所載)

 現在津軽地方の板碑の多くは文化財に指定され、保護の手が加えられている。先に述べたように、中別所の源光氏の板碑は国の重要美術品に指定されており、深浦町関の板碑群は県の史跡に指定されている。各町村とも文化財として指定し、保護の手を加えているところが多い。

中別所石仏の板碑群,重要美術品に指定されている正応の板碑(写真左)を含む

 なお、弘前市は次の板碑を有形文化財に指定している。
 鬼沢字二千苅「文永の板碑」   一基
 国吉字村元「国吉板碑群」   一二基
 城東中央四丁目「板碑」     二基
 三世寺字色吉「三世寺板碑群」  七基
 町田字山吹「板碑」       一基
 田町四丁目「熊野奥照神社板碑」 一基
 新町、誓願寺境内「図像板碑」  一基

東目屋の国吉板碑群,阿弥陀ヶ淵は左側の山の下

 板碑は移転することが多い。鯵ヶ沢町種里城跡の板碑が二度移転したことは既に述べたが、近年弘前市細越の五十嵐氏地所の春日堂内の板碑二基が、岩木町との境界に近い愛宕神社鳥居横に移転された。
 昭和四十年代の城東団地の造成で、高崎堤の東にあった板碑二基は外崎三丁目外崎氏地所へ、通称「寺内」の螺喰田圃にあった四基のうち二基は城東八幡宮に移されたが、正安三年(一三〇一)三月の板碑ほか一基の行方は分からない。また、福村の熊野宮境内の板碑も行方不明である。板碑を地域住民はたいせつに保存しているが、団地造成や圃場整備など開発の手が入ると分らなくなってしまうことが多い。板碑に限らず、貴重な金石資料をこれからも長く保存したいものである。