本章は、『新編弘前市史』資料編1、古代・中世編(以後、資料編1と略記する)の編年体史料編に接続するものとして、天正(てんしょう)十七年(一五八九)から明暦(めいれき)二年(一六五六)に至る、弘前市を中心とした津軽領の約六十年間にわたる歴史を、編年体によって構成した。なお資料編1の最終条は、天正十八年(一五九〇)五月一日、豊臣秀吉が関東・奥羽仕置の見通しを大政所(おおまんどころ)へ伝える内容であって、本章の構成と若干重複するが、これは同書の編年史料の編纂方針並びに取り扱う地域など、本章と多少相違することによる。したがって、同様の史料を掲げていても綱文の内容がやや異なることもあり得るのであって、その点をあらかじめご了承いただきたい。
本章の編纂にあたっては、次の方針をもって臨んだ。
体裁は、資料編1と同様に、東京大学史料編纂所より刊行されている『大日本史料』のそれに倣(なら)い、各項はおおむね、綱文(こうぶん)(諸史料によって確定しえた歴史的事柄を要略した文)、文書、記録、編纂史料の順で配列した。そのほか文献史料のみならず、棟札などの金石文や絵図なども可能な限り掲げた。
さて、本章で取り扱う時期については、前述の通り天正十七年から明暦二年に至る期間とした。地域は、本市並びに藩政時代の津軽領全域を主たる対象とし、領主津軽氏と全国政権との関係動向などを視野に入れて、江戸・大坂・京都、蝦夷地、日本海沿岸地域の各地、隣領の南部領、秋田領などの地域をも対象に組み入れて、史料を編纂配列した。
本章における編年体史料の開始は、天正十七年八月二日、北奥三戸の領主南部信直が、秋田檜山(ひやま)の安東氏を同道して上洛する意志を示し、それに対して、統一政権たる豊臣政権が上洛に支障なきよう配慮したことを伝達した時点とした。このことは、南部信直をはじめとする北奥羽の大名が豊臣政権へ上洛を連絡することによって、服属を公式に表明した画期的な事柄であった。もちろん当時の檜山安東氏は南部氏の下知に従うような勢力関係にはなかったが、同政権と南部氏を取り持つ奏者の任にあった前田利家から伝えられた情報により、豊臣政権がそのように認識していたのである。
編年体史料の最終条は、明暦二年二月二日、江戸幕府が四代藩主津軽信政(つがるのぶまさ)の跡目相続を認め、叔父で旗本の西丸書院番津軽信英(のぶふさ)へ後見を下命した時点とした。すなわち三代藩主津軽信義までの藩政を扱うことにしたのであって、その理由は、次の二点である。
第一は、藩政全体の動向から見た場合、四代信政の時期は藩政確立期として位置づけられ、三代藩主津軽信義に至る藩政成立期とは、明らかに領内の政治・経済など各分野での支配のあり方が決定的に異なる。また幕藩体制全体の政治状況も、武断(ぶだん)政治から文治(ぶんち)政治への移行期にあたり、津軽領を取り巻く情勢も初代津軽為信(ためのぶ)、二代信枚(のぶひら)、三代信義などの活躍した十七世紀初頭から前期にかけての時期とは、相違するからである。
第二の理由は、第一と密接な関係にあるが、藩庁支配機構の整備から派生する史料の作成形態、現在に至る残存状況などを勘案すると、三代藩主に至る時期と四代藩主信政の治世の時期とでは決定的に相違する傾向が認められるのである。具体的には、信政の時期に入ると藩庁の支配機構が整備され、各役職における職務分担が明確になるにつれて、文書による行政が領内の隅々まで行われるようになった。つまり各役職から藩庁へ文書が上申され、逆にまた藩庁から各役へ下達文書が出されることで、前代とは比較にならぬほどの、支配に関する膨大な文書史料が藩庁に残るようになった。このような状況から、寛文元年(一六六一)には「弘前藩庁日記(ひろさきはんちょうにっき)」(弘前市立図書館蔵)の作成が開始され、領内の様々な出来事や幕府とのやりとりなど行政に必要な事柄が日々詳細に記録されることになった。本巻において本章と第二章の「藩政の確立」以後とを分けたのも、成立期と確立期とを分けて把握するという同様の理由によっている。右の二つの事由から、編年体の最終条を設定したのであって、これは津軽領内のみならず幕藩体制全体の政治の動向を睨み合わせ、またそれに連動した史料学的な根拠に基づいている。
さて本章で扱った時期的な範囲は右に述べた通りであって、内容については紙幅の関係から多くを解説できないが、簡単に触れると、次のような事柄が目を引くであろう。
豊臣政権による十六世紀後半から末にかけての奥羽日の本(ひのもと)仕置から始めて、同政権下における津軽氏の九戸一揆(くのへいっき)出陣、肥前名護屋(なごや)出陣、伏見作事板(ふしみさくじいた)の搬出問題などを通じて、同氏が全国政権へ権力編成される過程がまず注目されるであろう。徳川政権にあっては、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の動乱以後、津軽氏による徳川政権や朝廷公家勢力との関係構築、領内支配体制の成立などが主たるものとなろう。具体的には、城下高岡(たかおか)(後の弘前)をはじめとする領内各都市の建設、農村支配の形成、知行充行に基づく家臣団の形成、寺社支配の形成、秋田佐竹家との藩境確定交渉、元和五年(一六一九)の福島正則改易(ふくしままさのりかいえき)に伴う福島正則の津軽への転封(てんぽう)と津軽氏の越後への転封騒動、大熊(おおくま)騒動をはじめとする家中騒動などである。つまり十六世紀末から十七世紀中葉にかけて、近世の藩体制の形成に向かう北奥津軽領をめぐる歴史情勢は、このようにみるならば全国的な動静の中で内外ともにめまぐるしくもあり、かつダイナミックな動きであったといってもよかろう。
本章では、このような状況を可能な限り活写しようと努力したが、紙幅の関係から網羅主義をとることは許されず、かつまた非編年史料は、ほとんど割愛せざるをえなかった。また前述した、体裁は『大日本史料』に倣うとした点についても、たとえば標出(ひょうしゅつ)や年末雑載(ねんまつざっさい)なども付することはできなかった。
なお編年体を構成する基幹部分の一つの記録・編纂物については、藩政時代に津軽家で編纂した官撰史書「津軽一統志(つがるいっとうし)」と「津軽編覧日記(つがるへんらんにっき)」を主として用いた。ほかに準官撰史書ともいうべき「封内事実秘苑(ほうだいじじつひえん)」(文政二年<一八一九>の成立、別名「工藤家記」、大正十五年に刊行された旧『青森県史』では、同史料を大幅に採用)も一部掲載したが、これも紙幅の関係から、限定的なものにとどまらざるをえなかった。
「津軽一統志」は周知の通り、十七世紀の前期に成立した最初の官撰史書であり、本章では従来ほとんど当地において知られていなかった東京国立博物館所蔵本(一橋家より同館へ寄贈されたことが判明しており、津軽家の朱印が押捺されている)が、諸種の写本と校合した結果、比較的筋の良い伝本であることが判明したので、本章では全面的に採用した。
「津軽編覧日記」(別名「木立家記(きだちかき)」)は、当藩の藩士木立守貞(もりさだ)が寛政五年(一七九三)に藩命で編纂した史書で、「津軽一統志」に続くものとして位置づけられており、これも従来ほとんど翻刻されたことがなかったので、新たな史料を紹介する意味も含め、かつ文書史料や「津軽一統志」では知り得なかった歴史事象を補い充実させる意味からも、本章に可能な限り掲げた。したがって文書・記録によらず、編纂物で綱文の内容を構成する場合は、基本的に最も古い成立の「津軽一統志」、ついで「津軽編覧日記」、「封内事実秘苑」の配列とした。なお藩政時代の編纂物はこの他にも枚挙にいとまがないほどであるが、紙幅の限定により概ね割愛した。
各史料の所蔵先などについては、本章末に掲げた所蔵先一覧を参照いただきたい。