本章は、四代藩主信政による藩政確立期の政策が、十八世紀初頭以降の社会的・経済状況の変化によって、その後、どのように展開していったのかを示そうとしたものである。
したがって、第四章以降の藩政の発展を視野に入れながらその変質過程を追い、領主的対応である藩政改革につなげていく内容とすべきものであり、また、藩政後期の起点となることから、本来ならば主として藩政後期を扱う『新編弘前市史』資料編3(近世編2)に収録することが、より妥当と考えられるものである。しかしながら、紙幅の制約上、資料編3に盛り込むことができなかったため、宝暦改革の政策的展開と改革推進者である乳井貢の思想、及び津軽弘前藩の司法制度についての史料を本章にまとめた次第である。したがって、第二章との関係、さらには本資料編2における位置付けも若干唐突なものとなっており、掲載史料の年代も十八世紀中頃から十九世紀中頃に及んでいる。この点をあらかじめご了解いただくとともに、資料編3とあわせてご活用いただきたい。
さて、第二章第三節でみてきたように、十七世紀の前半から後半にかけて、新田高は飛躍的に増大するが、十七世紀の末にはほぼ限界に達し、十八世紀においては、その開発の成果を維持するのが精一杯の状況であった。さらに、十八世紀の初頭には、貨幣経済の浸透によって米価の低落とは逆に、諸物価が高騰する経済状況が顕著となり、貢租収入が減少する反面、財政支出が増大していったことで、藩財政は困窮の一途をたどることになる。そして、これに拍車をかけたのが、連年の不作・凶作であった。
藩は、廻米を唯一の頼りに、江戸や上方の有力商人からの借財によってこれを凌いでいくことになるが、特に寛延二年(一七四九)の大凶作によって、藩財政は困窮の極みに達し、宝暦四年(一七五四)時点での藩の累積借財高は、江戸・上方・国元と合わせ、総額金三十五、六万両にも及んでいた(「宝暦四甲戌年御改帳之写」弘前市立図書館蔵)。藩の年間総収入の二倍近い負債であり、もはや、第二章第五節でみたような、倹約や知行借り上げといった方策では、対処しがたい状況に陥っていたことになる。宝暦三年から始まるいわゆる宝暦改革は、この財政立て直しが第一の課題であった。
第一節第一項は、この宝暦改革について、年代を追って、政策の展開を中心に構成したものである。基本的には「弘前藩庁日記」をもとに、適宜「津軽編覧日記」と「封内事実秘苑」を織り込んだ。それらの配列については、第一章と同様とした。なお、改革の前提である社会的・経済的状況については、前述したように資料編3に掲載することとしている。
年代順としたのは、その政策が多岐にわたることと、宝暦五年の大凶作によって、同六年から改革路線に変更がみられるとともに、改革の中心政策である「標符」が発行されたためであり、その変容を追いやすいと考えたからである。したがって、大きく、改革の中心機関である調方役所が設置され、実質的に改革が始まった宝暦三年八月から大凶作の同五年までの(一)改革の開始と諸政策、翌六年から「標符」の通用が停止された同七年六月までの(二)改革の変容と「標符」の発行、そして諸政策が改革前に復した同八年十月までの(三)改革の終焉、に分けるにとどめた。
ただし、寺社政策については(四)に一括した。これまであまり触れられてこなかった部分であり、宝暦改革研究に厚みが出てくるものと思われる。掲載した弘前大学附属図書館蔵の「弘前八幡宮社務日記」(この史料名は総称であり、各冊は例えば「宝暦六年 御用留書」などの表題が表紙に付されている)は、弘前八幡宮の社家頭小野家の当主が、代々書き継いできた社務にかかわる公用日記であり、寺社奉行からの通達、領内の寺社を総括する惣録所最勝院からの通達、さらには配下の社家からの上申書などが記載されており、公用記録として貴重なものとなっている。
中津軽郡岩木町所在の高照神社蔵「神社創設ノ由来」中の諏訪門兵衛の記事は、同社の祭司役後藤兵司が、乳井貢に対して極めて批判的な立場から宝暦改革の顚末を記録した「高岡霊験記」に一脈通じるものであり、寺社に対する乳井の姿勢が端的に読み取れる。諏訪は宝暦八年から翌年まで、後藤とともに祭司役を勤めた人物である。
第二項「近衛家との政治的関係」では、京都府右京区宇多野の財団法人「陽明文庫」で採訪した「近衛家寄託文書」を掲載した。周知のように、近衛家は近世公家勢力の代表的な存在である五摂家七清華の筆頭に位置する家柄である。津軽家と近衛家との関係は、津軽氏の出自の源泉を藤原氏とする自家の系図を近衛家に保証してもらうという浅からぬ間柄であり、藩としては、近衛家に対して間断のない財政援助を行っていた。掲載史料の多くはこの点に関するものであり、京都屋敷に駐在させていた留守居を通して、近衛家との関係をいかに良好に保持しようとしていたかが伺われる。
本節に入れた主な理由は、乳井の動向が知られる記事が散見することによるが、従来ほとんど学界において知られていない新史料であり、国元の史料では窺いしれない情報も記録されていることによる。なお、同文庫には、近衛家の公的な用務日記である「近衛家雑事日記」約三百冊が所蔵されている。十七世紀後半から幕末維新期に至る約二百年間、近衛家の家司が日々記録したものであり、津軽家の関係史料も多く収録されている。紙幅の制約から本資料編に入れることができなかったため、『年報市史ひろさき』四号から五回にわたって分載を予定している。本寄託文書と関連する記事も多いことから、併読のうえ、ご活用いただければ幸いである。
さて、宝暦改革は、乳井貢を中心として実施されたわけであるが、乳井は当時の思想界のなかでも独特の思想内容の持ち主として、その独自性が高く評価される思想家でもあり、改革にその思想の実現を図ろうとした特異な人物であった。そこで、第二節では、改革の実像を立体的に把握するため、乳井の思想を取り上げることとした。乳井の著作の殆どは、すでに昭和十年から同十二年にかけて公刊された『乳井貢全集』全四巻(乳井貢顕彰会発行)に収録されているが、今回、弘前市立図書館蔵一般郷土資料を底本として校訂をあらたにし、乳井の思想がよく伝えられる『五蟲論』『志学幼弁』『大学文盲解』『深山惣次』を掲げた。これらについての解説は、便宜上、第二節の中に置いたので、そちらを参照いただきたい。
ところで、藩政の展開の中で、是非とも押さえておかなくてはならないものに、司法制度の整備がある。その内容や運用に継続性はあるものの、藩政の展開の中で、その時々の状況に対応して段階的に整備されていくものだからである。したがって、第三節に一括して掲げた。特に第一項であげた安永律・寛政律・文化律の制定は、いずれも宝暦改革や寛政改革が行われていく社会的・経済的状況と関わりが深い。社会不安の増大は、社会秩序の乱れに直結する側面をもっている。
安永二年(一七七五)に本格的に編纂が始まり、同四年に至って最終的に完成した安永律は、最初の刑法典であるが、その成立の背景には、宝暦六年(一七五六)に藩主がこれまで歴代にわたって出された全ての法令を編纂するよう命じていることから、宝暦改革における法の整備が基礎にあったのであり、藩体制の弛緩や動揺を防ごうとする諸政策の一環として位置付けられるとされている。寛政九年(一七九七)に制定された寛政律も天明飢饉後の領内復興のために実施された寛政改革の諸政策の一環をなすものであった。天明飢饉をピークとする犯罪の増加と多様化に対して安永律の刑罰体系では対応仕切れなくなったためであり、幕府から付与された裁判に関する自分仕置権をフルに活用し、中国法の明律に範を求め、幕府の御定書を参考とし、また、これまでの判例をも踏まえて完成している。しかしながら、寛政改革にもかかわらず、その後も藩財政は好転せず、しかも文化四年(一八〇七)からは蝦夷地警備が永久警備となり、財政窮乏にさらに拍車をかけることとなった。このようなことを背景として、明律を模範とする寛政律が実効性を発揮し得なかったため、藩ではその改正へと動きだし、幕府法の御定書に範を求めた文化律を同七年に制定することになる。範を明律に求めないのであれば、幕府法に求めざるを得なかったからであろうが、一つには、天明飢饉後の農村復興策において、他領からも多数の農民等の移住を認めたため、領地支配を一層強化する必要があって幕府法に範を求めたと考えられ、また、蝦夷地警備という藩を越えた国家レベルの軍役を常時遂行していくことになったことも、幕府法に範を求めた理由にあげられると考えられる。文化律は寛政律に比較して、より綿密に適用され実効性があったようであり、その後、藩政期を通して施行されることになる。
ところで、これらの運用については、条文に基づく判決の申し渡しと、慣習・先例を参照しての判決の申し渡しと二本立てであった。まとまった判決記録が現存しないため、「弘前藩庁日記」に記載されている多数の判例に頼らざるを得ないが、本項では、安永律・寛政律については条文通りの判例を一例ずつあげ、文化律では判例が四例以上見られる項目と条文を示し、それに対応する判例を一例ずつ紹介した。
なお、安永律の条文は『法学論集』(大阪経法大)第六号に掲載のものを、寛政律は『弘前大学國史研究』第十五・十六合併号記載のものを、文化律は「要記秘鑑」(弘前市立図書館)に入っているものを使用した。
第二項・三項は、罪人を収容する牢屋と揚屋に関するものである(ともに弘前市中村俊三氏蔵)。弘前藩の牢屋は原則として未決囚の収容施設であり、弘前城下の北端(現馬喰町)に所在し、主に農民・町人を収容した。その所在が確認できる最古の史料は慶安二年(一六四九)頃の「弘前古御絵図」(弘前市立図書館蔵=付図を参照)である。それ以前にも牢屋は存在したであろうが、以後藩政期を通じて移転することはなかった。
揚屋は牢屋に含められる施設で、道路を隔てて牢屋の向側に位置し、主として容疑の軽い農民・町人を対象としている。揚屋の完成は文化二年(一八〇五)であり、寛政律と文化律の制定の間に位置していることから、司法制度が整備されていく過程でのものであったととらえられる。また、その設置にあたっては、町人や農民が何か軽い容疑で長期間町預かりや村預かりになると町や村の重い負担となり、それを軽減するための入牢とし、その後取り調べの結果無罪放免となれば、その人達は周囲の者から冷たい眼で見られるであろうから、牢屋とは異なる収容施設が必要だとして揚屋の設置が計画されたようであり(「弘前藩庁日記」文化元年八月二十一日条)、この時期の社会状況を反映したものであったとすることができる。第二項にあげた「揚屋御条目(仮称)」は文政十二年(一八二九)のものであるが、その揚屋が実際どのように管理されていたかが知られる。ただし、当然のことながら、牢屋の管理と大差はみられない。
第三項の弘化三年(一八四六)の「牢屋敷平面図」からは、取り調べ・申し渡しなどの番所、大牢・中牢・女牢・四尺牢の諸施設がどのように配置されていたかが確認できる。ここに揚屋が見えないのは、前述のように道路を隔てた位置に設置されていたからである。なお、揚屋については平面図が存在しないため、その内部構造については不明である。
以上、本章の内容と構成について述べてきた。冒頭で述べたように、第一節の社会的・経済的背景については資料編3(近世編2)をご覧いただきたい。また、第二節・三節についても、紙幅の制約上、多くの貴重な史料を割愛せざるをえなかった。あわせてご理解いただければ幸いである。