『深山惣次』五巻

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 著作年代が確定できないが、書名と内容からして川原平流謫中に著されたものと推定できる。一種の戯作である。「深山」とは西目屋川原平の深山幽谷の地を指し、「惣次」は「荘子」のもじりである。話の筋立てはこうである。宋の国に「荘周」なるものがいた。彼は「世界の事が馬鹿らしい」と見て唐を去って日本に渡り、肥前松浦の「和藤内」の世話で女房をもらい一子をもうけた。これが「田舎荘子」である。この「田舎荘子」の子が「惣次」である。惣次は「苦界の世界を嫌ひ」人里遠く離れた山中の洞穴で世捨て人同様の生活をしていた。この惣次のことを伝え聞いて、「首を押さえて仁義を飲ませ、人を人にする癖」のある「名は久兵衛、字は忠次と云人」(名は丘、字は仲尼の孔子のもじり)が、大いに立腹する。忠次は「人は人の中に天命を蒙り人の事をするを以て仁とは云也、故に仁は人なりと云て二人と書く字也、身を殺して仁をなすと云也、縦へ死ぬ程の切ない目に逢ふとも恥を恥て立ちさらぬ、是は義とは云也」と考える者であり、世間への務めを何よりも重んじる者である。これは藩政改革に挺身してきたかっての乳井自身でもあろう。かくして、忠次は「世を盗むいたづらもの」に、人生にはどんなに辛いことがあろとも果たすべき「天命」があることを説諭して諫めずんばあらず、と意気込んで惣次の穴居に訪れる。
 その忠次を前にして、惣次は「六ヶ敷世の人の恩を受けず心安き天地の恩を恩と」する人生観なり心境なりを語る。これは改革に失敗し、罪人の烙印を押された乳井が最晩年に到り着いた自身のそれであろう。そこに見られる自嘲的な言辞には、失意の念から来る自己卑下の感情、聖人の教えに対する失望感、人間社会からの韜晦、世事の煩わしさへの嫌悪、そういった諸々の虚無的で複雑なシニックな感情が滲み出ている。そして実ることのなかった波乱な人生に困憊した乳井の傷心を優しく包み込むものとしての「自然殿」が見い出されてくる。全てがそこから生まれそこに帰っていく、生の根源、グレート・マザーとしての「自然」は老荘の説く自然でもある。最晩年の乳井は格段に深まった次元において老荘の思想に邂逅したかに見える。
 紙面の制約上、巻一と巻二を収録し、他巻は割愛した。