【解説】

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 本章は、津軽領における「産業と海運の発達」として、おおむね第四代藩主津軽信政の時期から藩政後期にかけての期間を取り扱い、地域的には津軽領及び江戸、大坂、日本海沿岸地域や近隣の南部領、秋田領などの地域も対象に組み入れて史料を編纂配列した。
 取り扱う史料のうち、年代がある程度確定しているものについての上限は寛文四年(一六六四)であり、下限は安政五年(一八五八)である。また掲載史料については、弘前市立図書館所蔵の津軽家文書、八木橋文庫、旧八木橋文庫蔵史料、弘前藩庁日記(国日記)などの日記類、青森県立図書館所蔵の瀧屋文書、鯵ヶ沢町公民館所蔵の塩屋文書を中心に、国立国文学研究資料館史料館所蔵の津軽家文書、京都府立丹後郷土資料館所蔵の丹後国元結屋三上家文書、福井県敦賀市立図書館所蔵の高島屋文書、船登源兵衛文書などからなっており、これらの文書、日記類を項目立てに従って配列した。
 第一節「殖産政策の展開」では、領内産業振興の基本である交通の整備をとりあげ、領内交通体系の確立と関所の機能の充実を項目として立てた。
 近世の領主は、藩政の成立期より領内鉱山の開発には特に熱心であり、津軽領も例外ではなかった。藩内では、すでにして十七世紀の後半から藩財政の悪化にともない、財政の再建を目指して尾太(おっぷ)、砂子瀬(すなこせ)、虹貝(にじかい)、湯口(ゆぐち)、三ツ目内などの鉱山開発や漆、松、杉、桑、楮、茶などの植林奨励、塗物の生産奨励など様々な殖産政策を展開した。なかでも尾太鉱山は、唐牛与右衛門を惣奉行として銀、銅、鉛などの採掘を積極的に行うなど、藩庁ではその開発と経営に務めた。漆木も寛永七年(一六三〇)、各村に五万本の移植が進められて以来、順次領内各地へ植林が奨励され、四代藩主津軽信政の元禄三年(一六九〇)には領内に三三人の漆守を任命して、漆実の生産と管理を掌握させた。漆はまた、塗物の原料として重要であり、平行して漆工芸も奨励していった。さらに楮の植林により製紙業も奨励されるなど、信政時代に積極的な殖産政策が実施に移された。
 本節では、紙幅の関係から産業全体を取り上げることはとうてい不可能であるから、領主権力が特段の精力を注入したと考えられる、尾太(おっぷ)鉱山の開発と経営に関する史料と、漆木の植林奨励についての史料を掲げた。
 第二節の「海運の発達」では、海上交通による津軽領と上方及び江戸、蝦夷地などとの人や諸物資の交流についての史料を中心に掲げたが、本節を節として独立して立てることにより、津軽領と全国市場との関わりをよりいっそう明確にすることを目指している。なかでも領内から蝦夷地や南部地方へ人や舟が出てゆく際の文書、諸物資が各地へ移出・移入される際の文書には、従来活字化されたことのない新出史料を収録した。十七世紀末におけるヒト・モノの移動の実態を知る上で貴重であろう。
 津軽地方と上方との近世的な交流は、豊臣政権との関係により開始されたが、寛文年間の西廻り海運の形成により、いっそう強化され、以後幕末に至るまで広範な商品流通が展開する。
 江戸とのアクセスは、寛永二年(一六二五)に津軽領青森から江戸への御膳米(ごぜんまい)(江戸藩邸での消費米)廻漕の開始によって始まったが、本格的には上方と同様、寛文年間の東廻り海運の形成により商品流通が展開する。
 このような上方や江戸との商品流通において津軽領より移出したものは、領主の城米(じょうまい)、大豆、木材などを主力に、銅、鉛、海産物などが中心であったのに対し、移入した品は陶器、木綿、古着、小間物、煙草などの日用物資を中心に様々な物であった。
 津軽領の湊は、青森・鯵ヶ沢の両湊が中心であり、城米は直接両湊へ駄送したほか、岩木川舟運を経て、十三(とさ)で積み替えて鯵ヶ沢湊へ回漕する、いわゆる「十三小廻(とさこまわ)し」の態勢がとられ、同湊で西廻り海運へ接続して上方や敦賀へ廻漕された。
 本章では、これら十七世紀後半から幕末に至るまでの、西廻り海運や東廻り海運における商品流通の実態を示す史料を中心に、青森や鯵ヶ沢の廻船問屋史料なども掲げた。
 さらに海運のみならず、近隣の南部領や秋田領との陸上交通(街道)における商品流通の実態を示す史料なども掲載した。