津軽為信が、その居城を大浦城から堀越城へ移したのが文禄二年(一五九三)であった。江戸幕府成立後、外様大名の一人として、四万七〇〇〇石を領したが、堀越城では近世的な城下を形成するうえで、地勢的にも、また、規模の上からも不十分であった。そこで新たに「高岡」の地へ新城築城を計画し、幕府にその許可を求めるとともに、町割りに着手したのが慶長八年(一六〇三)ころからとされている。
慶長十二年(一六〇七)十二月に為信が死去したため、築城は二代信枚に引き継がれ、慶長十四年(一六〇九)に幕府の正式許可を受けて、翌十五年(一六一〇)より本格的な工事が開始された。
築城は大いに急がれた様子で、大工職などは領内の大工たちでは間に合わずに、江戸や関西・北陸などから数百人を呼び寄せている。また、材木は近くの山々から伐り出されたものと見られるが、大浦城や大光寺城など、旧城郭の建物を解体したものもあったという。
早くも翌十六年(一六一一)一月には町方が引き移り、五月には藩主信枚自身が堀越城からの引っ越しを行っている。
しかし、南側の備えとされた「南溜池」の工事は慶長十九年(一六一四)までかかり、「長勝寺構」は元和元年(一六一五)に完成した。
なお、ここ高岡の地名を弘前と改めたのは、八幡宮や神明宮、東照宮などがそろい、岩木山下居宮の楼門などが竣工した寛永五年(一六二八)八月のことという。
ここでは、弘前城の本丸居館について知りうる資料として、五枚の絵図を写真とともに掲げ、各々解説を付した。また、現存する場内建物については、平面図・立面図等を掲げ解説を付した。