東西九七五ミリメートル、南北一、四四〇ミリメートルという大きな絵図面であり、四分を一間として描かれている。彩色された絵図ではあるが、年代の記入がなされていない。
ほかのものと比較すると、能舞台が描かれておらず、表書院前の空地が狭く、舞台の建設が考慮されていないことが明らかであり、もっとも古いころの居館の様子を示すものと見ることができよう。
図1 弘前御城御指図(弘図津・M63)
○「弘前城本丸御殿絵図(一)」(TK五二六-一)
先の「弘前御城御指図」と同様に彩色された貼絵図である。六分を一間として描かれており、東西一、一〇〇ミリメートル、南北一、五六〇ミリメートルという大きな絵図面である。さらに、「寛文十三年(一六七三)丑二月」と年代が注記されている。
このような注記があると、一般にはそのころの御殿の様子を描いたものと見られているようであるが、表書院前の能舞台は、延宝二年(一六七四)八月に新規の造営が作事奉行へ申し渡され、同年十一月に初めて舞台で演能が行われたことが知られており、この絵図面の注記の段階では、ここに舞台がなかったことが明らかである。かつて佐藤巧の指摘したように、この絵図面は、当時の改造計画図と見るべきものであろう。
寛文十二年(一六七二)から徐々になされていた御殿改築の最終的計画図であろうか。そしてこれ以降の絵図面では、主要建物の構成や間取り、部屋名など、この絵図面と大きく変わることがなく、弘前城本丸御殿の基本的な姿を示す重要な絵図面であるといえよう。
図2 弘前城本丸御殿絵図(弘図津・TK526-1)
○「弘前城本丸御殿絵図(二)」(TK五二六-二)
東西一、一三五ミリメートル、南北一、五六五ミリメートルという大きなものであり、六分を一間として描かれている。
年代の記入はない。先のものと比べると、奥部分が増築されており、さらに、役所部分に二階屋を上げることが計画されたものらしく、白地の貼紙が認められる。
これら三枚の絵図面には、本丸の南側のいずれにも櫓は描かれていない。したがって、これらの絵図面の年代は、五層の天守が焼失したのち、三層の櫓が天守として造られるまでのものと見ることもできよう。
図3 弘前城本丸御殿絵図(弘図津・TK526-2)
○「弘前城本丸殿中之図」(丙一七-一一九五)
東西五八〇ミリメートル、南北八四五ミリメートルと、これまでのものに比して一回り小振りにできている。そしてまたここでは、一間を三分で表している。
これは幕末に近いころのものと見られ、現存する天守閣が「三層御櫓」として描かれており、奥部分の増築が計画されている。なお先の絵図面で描かれていたように、役所部分には二階屋のあることが注記されている。
図4 弘前城本丸殿中之図(弘図古・丙17-1195)
○「御本丸建物之図」(TK五二六-三)
年代の記入はないものの、明治になってからのものと見られ、東西九〇〇ミリメートル、南北一、一八〇ミリメートルという大きさで、五分を一間として描かれている。
内部には朱書きで「御一家御備」と書かれており、さらに「本丸建物之図」とある。そして、
「但黄色ハ取毀済之部
存在九百四拾六坪壱分五厘
取毀七百四拾六坪九分」
という注記がなされている。
そろそろ本丸御殿が取り壊されつつあるころのものであろう。奥部分と手前の表御書院の付近にはすでに「黄色」が塗られており、これが取り壊しの「七四六坪九分」に当たるところなのであろう。
奥の部分は、先の「弘前城本丸殿中之図」で計画されていた増築が完工した様子が示されている。
図5 御本丸建物之図(弘図津・TK526-3)
以上、五枚の絵図面をほぼ年代順に見たのであるが、寛文十二年(一六七二)から始まった御殿改造後は、その内容が大きく変わることがなく、それぞれの役目に応じて座敷が確定し、長く固定して踏襲されていったことがうかがわれる。
これら五枚の絵図面を通して、表書院の下座敷から南側に突出した部屋が取られていることが注目される。古い順にみると、「花鳥ノ間」「御次之間」「鷺之間」などと呼ばれているようである。「花鳥ノ間」とされていたときは二室に区切られているが、以後は大きな一室となっている。ここは、明確に「中門」あるいは「中門廓」とは記されていないものの、中世以来の「主殿」や「広間」に取られている「中門」「中門廓」の形式の名残とも見られ、興味深い。
そしてこれらを見ても、その中心的な建物は、名称はともあれ、往時の主殿系の「広間」または「大広間」につながるものを感じさせる。