さらに、文化二年(一八〇五)五月に、蝦夷地への出兵の功績によって七万石に直され、また、文化五年(一八〇八)十二月には、蝦夷地警衛の功によって、一〇万石への高直りがあった。
それを機会に、九代寧親は天守閣の再建を打ち出し、現存する三層の天守閣が構築されたのである。
図6 弘前城跡 文化財配置図
○天守--重要文化財
天守は、津軽二代信枚が当初に築城したときは五層であり、本丸西南隅に構えていたが、寛永四年(一六二七)九月に落雷で焼失したという。
現存のものの棟札には「御櫓新規御造営………」とある。文化六年(一八〇九)十二月に本工事に着手し、翌七年(一八一〇)三月より六月まで石垣の積み直しを行い、七月に立柱式があり、十月には上棟式、翌八年(一八一一)三月に竣工したものである。
また藩政期には「天守」とは呼ばれたことがないようで、明治にいたるまで、絵図面には「三層櫓」と記されている。
柱間を六尺五寸にとり、三層三階櫓の銅板葺で、一層目は間口六間奥行五間、二層目は間口五間奥行四間、三層目は間口四間に奥行三間となっている。二階は一階の入側柱に載り、三階は二階の入側柱で支えている。
二ノ郭に面する東南の二方向には、一階と二階とに張り出しを設け、それぞれに切妻造屋根を架けて変化を付けているが、本丸側の二面にはそれがないのが寂しい感じである。
一階張り出し部分は石落しとなっており、二階の二面には窓を設けずに縦長の狭間だけで、内側二面に連続する小窓を取って採光を補っている。
屋根は当初から銅瓦葺であり、外壁や懸魚の付く破風は白漆喰で仕上げてあるが、軒裏は素木のままである。
本丸東南に建つ独立天守で、東北地方に残る唯一の遺構であり、江戸時代後期の天守建築の典型とされている。
図7 弘前城天主 立面図・平面図
(『重要文化財弘前城修理工事報告書』より転載)
○隅櫓--重要文化財
隅櫓は、現存している以下の三棟とも重要文化財に指定されている。
二の丸辰巳櫓 三重三階隅櫓 栩葺型銅板葺
二の丸未申櫓 三重三階隅櫓 栩葺型銅板葺
二の丸丑寅櫓 三重三階隅櫓 栩葺型銅板葺
これら三棟の隅櫓は、ほとんど同じ形で、規模も同様であり、慶長築城の当初のものであろう。
現存の隅櫓は、すべて土塁の上に建ち、一階は土間床で、柱間は六尺五寸である。三層三階からなっており、一階と二階とは同じ規模で、四間四方の同面積とし、一階の屋根は腰屋根となっている。三階は二階より半間ずつ小さくなり、二階の入母屋屋根に載る形となっている。
屋根は当初は栩葺であり、土蔵造に白漆喰塗り、壁は太鼓壁で、内部には敵の攻撃に備えてか小石を詰めているが、木連格子や出窓部分には壁が塗られていない。
有事の際に備えて、弓矢などを保管しておく場所であり、また攻撃するところでもあったので、「矢倉」「物見」とも呼ばれた。そのための矢狭間や鉄砲狭間、石落しなどが付けられている。
図8 二の丸辰巳櫓 立面図・平面図
(『國寳弘前城二ノ丸辰巳櫓、同丑寅櫓及三ノ丸追手門維持修理報告書』より転載)
図9 二の丸未申櫓 立面図・平面図
(『重要文化財弘前城修理工事報告書』より転載)
図10 二の丸丑寅櫓 立面図・平面図
(『國寳弘前城二ノ丸辰巳櫓、同丑寅櫓及三ノ丸追手門維持修理報告書』より転載)
○城門--重要文化財
城門も、現存する以下の五棟がすべて重要文化財に指定されている。
二の丸南門 脇戸付き櫓門 銅瓦葺
二の丸東門 脇戸付き櫓門 銅瓦葺
三の丸追手門 脇戸付き櫓門 銅瓦葺
三の丸東門 櫓門 銅瓦葺
北の郭北門 脇戸付き櫓門 銅瓦葺
弘前城の城門は、枡形の土塁によって囲まれた櫓門である。これら現存する五棟の城門は、すべて築城当時のものとみられており、北ノ郭北門を除く四棟は、ほとんど同じ形式で、大きさも揃っている。
北門は、大光寺城の追手門を移築したものと伝えており、他の四棟より規模も大きく、また、銃眼がないなど、形式も古いものがみられる。十七世紀後半以降は搦手門であるが、築城当初は追手門であったとされ、その後、碇ヶ関に通じる道が開かれて、三ノ郭南門が追手門に変更された。
いずれの城門も、入母屋造で四方に腰屋根を付けた櫓門の形式であり、建揚げが高いことなどが特徴として挙げられる。また、現在はすべて銅瓦葺であるが、当初はいずれも本瓦葺であり、北門のみ栩葺であったことが知られている。
図11 二の丸南門 立面図・平面図
(『重要文化財弘前城修理工事報告書』より転載)
図12 二の丸東門 立面図・平面図
(『重要文化財弘前城修理工事報告書』より転載)
図13 三の丸追手門 立面図・平面図
(『國寳弘前城二ノ丸辰巳櫓、同丑寅櫓及三ノ丸追手門維持修理報告書』より転載)
図14 三の丸東門 立面図・平面図
(『重要文化財弘前城三の丸東門修理工事報告書』より転載)
図15 北の郭北門 立面図・平面図
(『重要文化財弘前城修理工事報告書』より転載)