神田小川町の上屋敷であり、かなり長く用いられていたが、承応三年(一六五四)に焼失しており、さらに明暦三年(一六五七)に「明暦の大火」によっても焼失しているのである。また、寛文八年(一六六八)にも焼失したものとみる研究もある。
そしてその後の、延宝六年(一六七八)に引かれたのが、ここに引用した絵図である。その後、元禄元年(一六八八)八月に、弘前藩の上屋敷は本所二つ目に屋敷替となっている。
○「江戸神田御上屋敷御指図」
(国立史料館蔵、架蔵番号二二四一)
これは、貼絵図彩色の美しい絵図面である。寛文八年(一六六八)二月の火災以後、次の絵図面で示される延宝六年(一六七八)までのものと見られるが、拡張された敷地には建物がほとんどないことから、それ以後間もないころのものとすることができるようである。
図16 江戸神田御上屋敷御指図(国史津・2B-2241)
○「神田御上屋敷御絵図」
(国立史料館蔵、架蔵番号二二二七)
これも貼絵図彩色のもので、その仕上がりは非常に美しいものである。注記に「延宝六戊午四月十八日」とあり、その年期は明らかである。
先の絵図面と比較してみると、中奥の建物がほとんど同じであることが注目される。また、表向きの建物平面については、まったく異なったものとなっており、延宝六年(一六七八)までにかなりの整備がなされた様子が、見て取れるのである。
図17 神田御上屋敷御絵図(国史津・2B-2227)