その後、元禄八年(一六九五)十二月二十六日と元禄十五年(一七〇二)十二月二十五日の二度にわたって類焼しており、さらに、宝永元年(一七〇四)七月二日には洪水による水害にあっている。そして宝永四年(一七〇七)一月十五日にはふたたび類焼しているのであるが、このときは表門は免れたと伝えている。
その後の様子は『津軽史』に記事のないことから不明であるが、幕末にいたるまで、この本所屋敷が上屋敷として用いられたものと考えられている。
○「元禄十五年以前 本所御上屋敷惣御絵図」
(国立史料館蔵、架蔵番号二二四五)
○「元禄十五年以前 本所御上屋敷御絵図」
(国立史料館蔵、架蔵番号二二四八)
この二つの絵図面は、前掲のものと同様な貼絵図であり、ともに美しく仕上げられている。ともに「元禄十五年以前」ということであって、この図が元禄十五年十二月の火災以前の作事に関するものであることがわかるのであるが、具体的にいつになるのであろうか。このことに関しては、他の本所上屋敷の絵図面を取り上げながらなされた後藤久太郎の詳細な研究があり、
「---の作事の年代が元禄八年の火災の際のものではなく、屋敷替後の初めての作事、即ち、元禄元年から四年の作事に関するものである---」
と述べている。
図18 元禄十五年以前 本所御上屋敷惣御絵図(国史津・2B二二四五)
図19 元禄十五年以前 本所御上屋敷御絵図(国史津・2B二二四八)