寛文八年(一六六八)二月には、他の江戸屋敷とともに焼失したものと見られるが明らかではない。その後、元禄十一年(一六九八)九月には火災によって類焼し、同十六年(一七〇三)二月にまた類焼している。
また、宝氷四年(一七〇七)には南に一軒おいた牧野遠江邸を取得し、正徳五年(一七一五)ごろには南隣の合併計画が進められたようであり、この三敷地を併せた屋敷の計画図などが造られているようである。
文政十年(一八二七)に戸越村へ屋敷替となるまで「中屋敷」として用いられたようであるが、明らかではない。
○「元禄十五壬午江戸より参候御差図之内ニ入参候柳原御中屋敷差図」(国立史料館蔵、架蔵番号二三〇二)
これは壮麗な貼絵図彩色がなされている。袋への書き込みからもわかるように、元禄十五年(一七〇二)以前の指図であることは明らかである。しかし実際には、元禄十一年(一六九八)の火災復旧後の様子が描かれたものと見られるのである。
図20 元禄十五壬午 江戸より参候御差図之内ニ入参候柳原御中屋敷差図(国史津・2B二三〇六)
○「正徳五未乙年十一月 柳原御屋敷惣御絵図」
(国立史料館蔵、架蔵番号二三〇九)
こちらは貼絵図書絵図彩色であり、実に美しく仕上げられている。袋には「正徳五乙未年十一月」と記されており、中屋敷における三邸合併以前の様子が記されているようである。
図21 正徳五未乙年十一月 柳原御屋敷惣御絵図(国史津・2B二三〇九)