二 思想

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(一)志記
【解説】
 『志記』は、寛政二年(一七九〇)十二月の自序を有する、毛内有右衛門宜応(ぎおう)(元文元年・一七三六~文化元年・一八〇四)の著述である。宜応こと茂粛(しげとし)は、標符の発行をめぐって乳井貢と対立した家老毛内有衛門茂巧(しげよし)の嫡男である。
 『志記』は、士君子の任務は経世済民にこそあるとの確固たる信念のもと、「官職」「関市」「戸籍」「田賦」等々について、その大体とあるべき姿とを述べたものであり、行政改革への彼の「志」が記されている。本書を特徴づけているのは制度への多大な関心である。しかもその制度とは、徂徠学でいうところの「礼楽」制度を意味し、徂徠学の影響が色濃く反映されている。宜応は、徂徠の説にならって聖人を「道」の制作者と捉える。四代藩主の津軽信政をこの「聖人」に比定し、この代で本藩において文物制度が備わったと見るのである(「妙公〈信政〉政事に心力を尽くし給ひて文物制度備わる」)。しかし、その制度も時を経るにつれて衰微してゆくのはやむをえないことである。これは誰の罪というのでもない、制度疲労は自らのことである。したがって、肝要なのは「時」と「勢」を勘案して、制度を新たに立て直してゆくことである。「礼楽制度は時として革る物」なのである。そしてまさに「今や革命の時」に当たると宜応は考え、礼楽制度のあるべき姿を書き綴ってゆくのである。
 この宜応の考え方の思想的背景に、徂徠の言う「先王制作」説が控えていたことは明らかである。弘前藩の行政官僚としての一武士の制度変革の構想は、中央の政治思想と決して無関係ではなかったのである。紙幅の関係で巻一の「官職考」のみを翻刻した。なお、翻刻にあたっては、岩見文庫本(GK・304・31)を底本とし、同文庫本(GK・304・2)により校合した。また、底本の表記と著しく異なった場合は、〈 〉内に表記した。
(二)幽府新論
【解説】
 平尾魯僊(文化五年・一八〇八~明治十三年・一八八〇)は、津軽の代表的画人として知られているが、それと同じく国学者としての業績も忘れてはなるまい。
 津軽では鶴舎有節を筆頭として、今村真種、岩間滴、三谷大足、増田幸太郎、植田平吉、竹田清次郎、笹木淡路、小野若狭、笹木健作といった人々が平田篤胤没後門人という形で篤胤の養子鉄胤の門に名を連ねており、津軽国学グループと称してもよいような人脈が形成されていた。魯僊は、そのメンバーのひとりであった。魯僊には既に翻刻されたものとして『合浦奇談』『谷の響』といった著作があるが、これらは津軽領内の怪異談を集成したもので、柳田國男民俗学に先駆して、平田国学が民俗学として展開していった一つの方向性を示す作品と言えよう(これらの作品の成立年代は、魯僊が正式に篤胤没後門人帳に名を連ねた元治元年以前であるが、魯僊は入門のかなり前から平田学に共感していたと考えられ、これらの執筆の背景に平田学の学問的影響を想定することは困難なことではない)。
 大著『幽府新論』は、怪異談の事例の蒐集というよりは、古今に渡る和漢の学説を博引傍証しながら、「神霊」「鬼神」「心霊」の活動と幽冥界の実在を証していこうとしたものである。鬼神や霊界に関する儒学の様々な言説を厳しく批判しているが、基本的には平田神道の顕幽論を補強する形で立論している。
 本書は、全八巻の大部であるので、紙幅の都合上、霊魂の行方を論じて興味深い巻八の「人鬼論」のみを翻刻した。なお、巻五以下の自筆本は弘前市立図書館に所蔵されているが、巻一と巻二の自筆本については平田門下の井上頼圀の旧蔵書を収める無窮会文庫で所蔵されていることが今回の調査で確認された。なお、森山泰太郎著『平尾魯僊』に自筆本巻一から卷四の「ゆくえ」についての興味深い記述がある。
(三)復政談
【解説】
 乳井貢、毛内宜応のほかに、当藩で徂徠の思想を継承したと見られる人物に森内左兵衛繁富(天保四年・一八三三没)がいる。森内は、寛政十年(一七九八)に勘定奉行を仰せ付けられたが、「無調法」があったとして書院番へ戻り、翌年には政務を誹謗した廉(かど)で河原平に蟄居を命じられた。森内は漢学に広く通じ、また「乳井貢の算術に熟練」していたという。乳井を信奉していた森内が同じ河原平に蟄居を命じられたというのも奇縁であるが、配流先での行動も乳井にならうものがあったと見えて、村人たちは「二代目乳井貢」と称した。
 『復政談』の基調にある主張は「従古」である。そして森内が「古にしたがふ」と言うとき、彼の念頭にあったのは「先王の道」である。彼は言う。「先生の道は天下を安ずるの道なり。天下を安んずるの道は六経にあり。六経に載る処を採るに礼楽、是なり。礼といふは中を制するのいひなり。楽といふは和するのいいなり」と。「先王の道は天下を安んするの道なり」とは、言うまでもなく、徂徠『弁道』『弁名』からの引用である。そして、「先王の道」の内実が「六経」に記載されているとの認識、これまた徂徠の学説に従った言説である。さらに、「先王の道」の大体が「礼楽」によって構成されていること、そして「礼」と「楽」との関係についての考え方も徂徠学のそれを忠実に踏襲したものであることは明白である。加えて、「聖人は必ず制度を正ふして民をしてその処を立てしむる也」という一節からも、彼は聖人を朱子学で説かれるような道徳の体現者として捉えるのではなく、礼楽制度の制定者という徂徠流の聖人観を持っていたことが分かる。本書を通読すると、彼が徂徠学における「天」と「聖人」と「道」との微妙な関係を正しく理解していたことが分かる。
 森内は「聖人の道」が信政の治世に実現されていたと考えていた。故に彼は、しきりに信政の治世への復帰を提唱するのである。「復政談」という表題はこのことを意味しよう。乳井と対立関係にあった宜応、乳井を信奉して「二代目の乳井貢」との聞こえがあった森内、各々の立場は異なっていたであろうが、両者は同じく信政治世を理想とし、それへの復古的な政治変革をもくろんだのである。徂徠学はそういった彼等の変革に対するもくろみの理論的拠りどころとなっていたのである。