【解説】

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 第八章「藩政期の宗教と信仰」では、弘前市内の寺社に関する史料を掲載し、市外は省略した。但し、寺社の書上帳として、最も古くまとまりをみせている「長勝寺並寺院開山世代調」は全文を掲載した。
 第一節は「宗教政策の展開」とし、弘前藩庁日記(国日記)から切支丹改め、切支丹類族改め、寺社奉行の設置に関するものを抽出した。江戸幕府は、寛永十二年(一六三五)全国に切支丹弾圧の法令を出し、島原の乱後はキリスト教徒ではないことを檀那寺が請け合う檀家制度が組織された。また、キリスト教徒で棄教した者は子々孫々まで追跡調査され、キリスト教徒の死亡は藩から幕府へ届け出ることとされた。国日記の寛文五年(一六六五)二月二十七日・同四月六日には、幕府法の「御触書寛保集成」の一二三五(寛文四辰年十一月)とほぼ同文のものが掲載されてあり、弘前藩では幕府の方針に添って切支丹改めが実施されたと見られる。
 「切支丹宗門御改留」は、元禄三年(一六九〇)より同十六年までの中から、同三年の二月・七月の二回分を抜き出した。これは、弘前神明宮神主齋藤長門支配の神職のものであるが、弘前藩内の神職全員に行われたものであろうことが分かる。「切支丹改証文」は、高照神社の屏風の下張りであったもので、藩内三六ヵ村のものが残っている。弘前市内では、桜庭村と米ヶ袋村の二ヵ村が残っている。隣接する尾上村(現尾上町)の場合は、「切支丹改証文」のほか「生死并引越者書上帳」と「馬数改書上ケ帳」が残っていることから、切支丹改めの際、宗門人別も同時に実施され、領民の把握が行われている。また、馬改めは軍用・藩用の町馬・郷馬徴用の調査でもあったことが分かる。
 寺社奉行は、それまで切支丹奉行であったものが任命されており、切支丹改めの作業が進む中で設置され、天和二年(一六八二)七月に月番制の採用があり(封内事実秘苑)、以後寺社行政が整備されていくことになる。享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」は、正徳元年(一七一一)の「御改元帳」を引き継ぐものであり、貞享四年(一六八七)の検地帳と照合していることが分かる。享和のものは藩主や藩からの下賜品を細大漏らさず記載するほか、在村小社の堂社と管理者である神職・修験をも把握している。分限帳として最も完備しており、寺社の財産目録であり、この時点での文化財目録であるとも言えよう。
 第二節「寺院」では、縁起・由緒書をできる限り載せた。幕府は、寛永八年(一六三一)より新地の寺院建立を再三にわたって禁止し、元禄五年(一六九二)にはこれまである寺院を古跡として認め、これ以後の庵室の寺院への取り立てを禁じた。これは、本末関係を正し、幕府や藩が認める宗教を保護し統制していくことになる。
 当藩でもこのような中にあって、縁起・由緒書を提出させ本末制度を把握し、寺社行政に身動きのできないように組み込んでいったものと考える。ただ、浄土宗にあって本山専称寺へ提出された「山崎専称寺並末寺由緒書」と、地元に残された「浄土宗諸寺院縁起」に大きな差異のあるのが理解に苦しむところである。
 安政期にも縁起・由緒書の藩への提出があった。これは、ペリーの来航以来、民衆の動揺が見られ、流行神が現れてくると、藩の認める宗教とそれ以外を区別する必要に迫られたことによると考える。「金木屋日記」には、イタコの口寄せや憑き物の話が記され、慶応二年(一八六六)弘前では大平楽と号し、妄言を唱え人寄せしているのが取締りの対象となった。
 第三節「神社」の「神祇管領吉田家諸国社家執奏記」には、藩内で八幡宮(弘前八幡宮)・熊野宮(熊野奥照神社)・神明宮(弘前神明宮)・岩木山下居宮(岩木山神社)・深沙宮(猿賀神社)の五社のみが記されている。元禄期から藩内の神職は、京都の吉田家から正当の宗教者として認められる必要があって、官職受領に上京した。しかし、吉田家では、五社のみを記録しているにすぎない。
 「神社微細社司由緒調書上帳」は、書上の雛形(和徳稲荷神社蔵)によれば、吉田家への届の有無から、境内地の除地か年貢地かの区別、末社、神職の由緒等を詳細に書きあげるように要求している。このことは、末社・小祠までを登録し、神職の由緒・相続年代まで書き出させることにより、これ以外の流行神や宗教家を排除するためであった。
 第五節「人々の信仰」では、神仏を崇拝するあり方で武家と庶民を区別するようなものは見当らない。八代藩主信明の「在国日記」からは、大飢饉で餓死者八万人以上といわれる天明四年(一七八四)を取り上げた。ここには藩主として餓死者供養を命ずるほか、個人的には生活習慣となっている庚申・甲子両信仰が見られる。普門院境内の庚申塔の刻名には、町人に混じって武士と見られる人名があり、共に講を組織していたものと思われる。江戸後期には御国三十三観音や愛宕宮(中津軽郡岩木町植田)など神社・仏閣への参詣が物見遊山を兼ねたものになってきていることがわかる。 (解説 篠村正雄)
 第六節「伊勢参り」は、伊勢神宮の御利益に浴するために当時の民衆が参詣する旅行である。領内におけるその実体はやや不明であるものの、参宮という旅の一端をうかがうことができる。 (解説 黒瀧十二郎)