近世になって城郭が形成されていった弘前では、数多くの寺社がいっきに建立され、それがまた、よく残されている。それらのあるものは国の重要文化財として、またあるものは県の重宝として指定されており、その保存や管理についてはよく行き届いている感が強い。ここではそれらの寺社を取り上げてみるなかで、気のついたことを書き上げてみることにする。
どこの藩でもそうであったように、弘前藩においても、その初期においては、城郭を始め、まことに多くの建造物を造らなければならなかった。実に多くの技術者が必要とされた時期を迎えたのであり、大変なことをやっとの想いで造り上げたのであった。であるから、同じような技術を用いている建築があったり、形態的にも同じようなものがあったりで、賑やかではあるが、そこにはまたそのような事情があったのである。地元の技術者では間に合わずに、他国からたくさんの技術者を招聘して、あちこちで、同時に工事を行わせていることも、見て取ることができるのである。特に、二代信枚のころは、弘前城郭の建設とともに城下町の建設が行われ、城下町鎮護のための寺社の整備も急がれたようであった。
城郭外の寺社建築の様子を眺めても、慶長十七年(一六一二)の弘前八幡宮、慶長十八年(一六一三)の熊野奥照神社、そして慶長二十年(一六一五)に樋ノ口の熊野宮本殿と続いた。さらに慶長年間の後半には長勝寺や革秀寺の本堂が造られ、寛永五年(一六二八)には岩木山神社の楼門、東照宮本殿、そして寛永六年(一六二九)には長勝寺三門が建造されている。また、寛永十五年(一六三八)ごろには、岩木町百澤寺の工事がなされており、この辺りまで、あちこちの寺社の工事が続くのである。
ここでは、重要文化財とか県重宝とかという区別を載せながら、一緒に年代順に書き上げてゆく。そしてその初期に当たるものから、江戸時代の中期から後期へと述べていくこととする。