規模が大きく、側廻りには三本溝の窓を配しており、舟肘木で一軒の垂木を受けているが、当初は、長勝寺庫裏や革秀寺本堂と同様の茅葺屋根であったようである。
内部は、以前は「土縁」であったといい、中央に両折戸をつって欄間を設け、間仕切りは一間毎に柱が立ち、二本溝の仕切を置くが、鴨居には付樋端が打たれている。仏間は板敷きとなり、来迎柱を立てるが、当初は背面壁に祭壇が取り付けられていた痕跡も見られる。
その建立年代についてはいくつかの説があるが、ほぼ、慶長年間(一五九六~一六一五)の後半と見られ、曹洞宗の本堂建築としては典型的な構成を示しており、全国的にも最古に属するものである。
図1 長勝寺本堂平面図・断面図
(二)庫裡--重要文化財
大浦城の台所として建てられたものをここに移したと伝えているが、柱の太さや風触の度合いや痕跡の調査などからすると、古い材料などを使用しながら、この場所で新たに建築されたものと見ることができそうである。建造年代は、慶長年間(一五九六~一六一五)の後半と見られる。
図2 長勝寺庫裡平面図・断面図
(三)三門--重要文化財
寛永六年(一六二九)に津軽二代信枚によって建立された三間一戸の楼門で、屋根は入母屋造栩葺としている。高さが一六・二メートルもある壮大なものである。下層の花頭窓の漆塗り部分の外は素木造であり、これがかえって雄渾さを感じさせている。
上層の軒は二軒繁垂木であり、これを支える組物は腰組と同様の禅宗様三手先の詰組とし、上層の縁には高欄が廻り、逆蓮柱の親柱が立っているなど、禅宗様の手法を基本としているようである。
また、岩木山神社の楼門と同じように、すべての柱について、下から上までの通し柱とする特殊な構造を示しており、江戸時代前期の重要な遺構の一つである。
図3 長勝寺三門立面図・平面図
(『重要文化財長勝寺三門修理工事報告書』より転載)
(四)御影堂--重要文化財
津軽初代為信の木彫を安置するために造られた堂である。寛永六年(一六二九)の為信の二三回忌法要に合わせて二代信枚が建造したものと考えられ、文化二年(一八〇五)に大規模な修理が行われている。三間四方で宝形造銅板葺の屋根を載せている。
三門と同じ寛永六年の創建と伝えられているが、後の文化二年(一八〇五)には、その位置を本堂の中心部の真後ろに移し、さらにその正面を南から東へ変えるという大改造がなされた上、全面的な彩色工事もなされたのであった。
御影堂は、その南に連なって配された「津軽家霊屋」と一体となり、藩の先祖たちを祀るためのものとして重要であったのである。
内部の厨子と須弥壇は、かつては国の重要美術品として指定されていたものであるが、現在は建造物の「附」として指定されなおしている。一間の建築型厨子で、入母屋造木瓦葺の屋根を載せており、二軒繁垂木を禅宗様三手先詰組で受けている。漆塗りの極彩色であり、各部に金箔や金泥が多用されていて、実に華麗な造作が施されている。
(五)総門--市指定文化財
全面に黒色が塗られており「黒門」と通称されている。長勝寺の総門であり、一七世紀の後半には建てられていたとみられる。
親柱を互平の鏡柱とし、角柱の控え柱を立てて貫で繋ぎ、木鼻付き頭貫型虹梁を架け、腕木を出して軒桁を受け、虹梁と襷欄間を設けている。軒を板軒とし、組物や中備は用いられていない。虹梁の木鼻や腕木鼻の絵様は豪放なものである。
造りは簡素なものではあるが、部材も大きく豪壮なこの門は、歴史的にも貴重なものであり、禅林街の象徴として存在している。
図4 長勝寺総門平面図
(六)津軽家霊屋--重要文化財
①環月台 為信室霊屋 寛永五年(一六二八)
~寛文十二年(一六七二)
②碧厳台 信枚霊屋 寛永八年(一六三一)
③明鏡台 信枚室霊屋 寛永十五年(一六三八)
④白雲台 信義霊屋 明暦二年(一六五六)
⑤凌雲台 信著霊屋 宝暦三年(一七五三)
長勝寺境内に、津軽藩歴代の藩主やその奥方たちの霊屋が、初代為信の御影堂から南へほぼ一直線に並んで建っている。
五棟共に素木造で、正面一間側面二間背面二間で、入母屋造の妻入として柿葺の屋根である。
内部は板床で天井は鏡天井とし、周囲の壁には板卒塔婆を巡らし、中央に石像無縫塔を安置している。その天井には白雲台では「天人」が描かれ、他の四棟には「龍」が極彩色で描かれている。
五棟とも霊屋の前面に門を構え、そこから玉垣を回してそれぞれが独立した形で建ち並んでいる。ともに同様の規模でありながら、細部の様式がそれぞれに異なり、その時代的変化を見ることができるのも興味深いものがある。
図5 津軽家御霊屋明鏡台門平面図
津軽家御霊屋