●岩木山神社 岩木町大字百沢字寺沢

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(一)楼門--重要文化財
 下居宮の別当寺であった真言宗寺院の百澤寺の楼門として、寛永五年(一六二八)に建てられたものである。
 五間三戸の楼門という形で、入母屋造栩葺型銅板葺である。総高一七・八五メートルという壮大なもので、丹塗一色の彩色と合わせて、見るものを圧する趣がある。
 下層の腰組は禅宗様三手先詰組で、通肘木を用いて軒支輪と拳鼻とを附けている。上層の二軒繁垂木を支える組物も禅宗様の三手先詰組であるが、こちらでは尾垂木を入れて支輪を見せずに軒天井を張っている。全体として禅宗様を基調としながら、細部には和様が随所に混用されている。
 弘前の長勝寺三門と同時期に造られたものであり、構造手法も酷似しており、同一人か同系統の技術者によるものと見られている。

図24 岩木山神社楼門立面図・平面図
(『重要文化財 岩木山神社本殿外四棟修理工事報告書』より転載)

(二)拝殿--重要文化財
 天正十七年(一五八九)正月の岩木山噴火による火災によって、百澤寺全山が焼失した後、慶長八年(一六〇三)に津軽初代為信が百澤寺大堂(本堂)として起工し、三代信義の代にようやく完成し、寛永十七年(一六四〇)に入仏供養会が行われたものである。
 壮大な五間堂で、入母屋造栩葺型銅板葺の屋根の正面に千鳥破風が付き、一間の向拝が付くという形である。
 内部の構成も明快で、密教寺院本堂としての雰囲気を今に伝えている。外部を全面丹塗とし、内部は弁柄塗であるが、彫刻や蟇股には美しい極彩色がみられる。
 現在、長勝寺に保管されている慶長八年の棟札には、大工職や鍛冶職に越前や丹波の工人が名前を連ねているが、このことは、弘前藩がその初期において、各種技術者を広く全国から招聘したことを示すものであろう。
 現在の拝殿は、内外陣境の結界、内陣の来迎壁、それに須弥壇や厨子が撤去されて開放的に使用されているが、これは、明治初期の「神仏分離令」によって百澤寺から岩木山神社へと移行し、密教寺院本堂から神社拝殿となった際に改造されたものである。

図25 岩木山神社拝殿立面図・平面図
(『重要文化財 岩木山神社本殿外四棟修理工事報告書』より転載)

(三)三尊仏厨子堂  西茂森一丁目--県重宝
 明治初期に長勝寺境内の蒼龍窟に移されたものであるが、岩木山百澤寺大堂の内陣に置かれていた建築型厨子であり、寛永十五年(一六三八)ころに造営されたものである。
 大型の一間厨子であり、入母屋造の木瓦葺である。いたるところに龍や松の彫刻を彫り、漆を塗り、金箔を押し、極彩色の文様を描いており、現在では「華御堂」と呼ばれている。
 豪華華麗ではあるが、落ち着いた配色で、見るものを感動させるものがあり、江戸時代初期の特徴をよく示している秀作である。
(四)本殿--重要文化財
 本殿をはじめ、奥門、瑞垣、それに中門などは、楼門や拝殿(大堂)などより遅れて、津軽四代信政が貞享三年(一六八六)から元禄七年(一六九四)までの歳月を要して建立したものであり、「下居宮(おりいのみや)」と称されている。
 三間社流造の正面に千鳥破風と軒唐破風とを付けた形式である。柱や梁や桁のほかに、壁や扉などを黒漆塗りとし、随所に金箔を押し、多用されている彫刻には極彩色を施し、金鍍金の飾金具を付けて装飾している。

図26 岩木山神社本殿立面図・平面図
(『重要文化財 岩木山神社本殿外四棟修理工事報告書』より転載)

(五)奥門--重要文化財
 一間一戸の向唐門の形式で、本殿と同様に彫刻が充満し、黒漆を主体とした極彩色が施されている。

図27 岩木山神社奥門・瑞垣 立面図・平面図
(『重要文化財 岩木山神社本殿外四棟修理工事報告書』より転載)

(六)瑞垣--重要文化財
 奥門の両端から本殿を一周している。連子窓の上の羽目板には、鳥獣などの絵画が描かれている。
(七)中門--重要文化財
 拝殿の前に建つ切妻造栩葺型銅板葺の四脚門である。柱などの軸部は黒漆塗りとし、木鼻や虹梁の袖切などの部分には朱漆を用い、蟇股や欄間の彫刻には極彩色が施されており、本殿や奥門と同様の豪華絢爛な意匠となっている。
(八)社務所--県重宝
 百澤寺の本坊あるいは客殿とされていたもので、寛永六年(一六二九)に楼門とともに造られたが、その後火災などがあり、現在のものはより新しく弘化四年(一八四七)のものである。
 座敷廻りには「土縁」を巡らし、「御座之間」という「上段の間」を中央に取り、「御次」「御膳立」などを並べているところは、藩主の参詣を期待したものとなっている。
 社務所となって若干の改造を受けてはいるが、大きな入母屋造茅葺屋根の景観は圧巻であり、山形県の立石寺本坊や岩手県の中尊寺本坊などと並んで、大切に保存したい遺構である。

図28 岩木山神社社務所