【解説】

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 本章は弘前藩最後の藩主十二代津軽承昭(つぐあきら)が嗣子に決定する安政年間から明治四年(一八七一)十月までの、幕末~維新期に関わるおよそ二〇年間にわたる史料を収録した。この時期は幕末の京都守衛に始まって、続く徳川慶喜の大政奉還、明治元年(一八六六)の東北戊辰戦争、翌二年の箱館戦争という激動の時代を経た後、新政府の指導による藩治職制の改変に同藩がいかに対応し、廃藩置県を迎えたのかという軌跡に主な焦点を当てて、鋭意史料の整理・編纂に努めた。その際、史料掲載の体裁は各項ごとにおおむね年月日順に配列した。史料の中には日付が分からないものもあるが、前後の関連から最適と思われる箇所に配置した。
 さて、維新期の弘前藩を語る時、戊辰戦争をめぐる政治・軍事情勢に関する史料は必須のものであり、本章でもそれらに要したページ数は多い。そして、戦後の弘前藩にとって最も特異な政策は「帰田法」という藩士救済政策であり、その概観をこの機会に是非とも収録すべきだとの方針により、「帰田法」に関する史料は特に項を立てて収めた。ただ、同じ項にまとめられた賞典禄については、その量が膨大であり、紙数の関係から多少の史料と全体規模を示す表を掲載するにとどまった。この点、賞典禄の詳細については別稿を期したいと思う。
 さらに本章では軍事・政治・経済といった所謂政治レベルの問題のみならず、幕末維新期の民衆に係わる史料をも収録しているが、その主担当はこの編纂事業中に急逝された田中秀和氏であり、他の史料に埋没させない方がより史料的価値を高めるとの見地から、これも別に項を設けて収録することとした。同氏の専門は神仏分離令を中心とする宗教史であったが、本章では宗教政策はもとより、民衆が受けた諸規制を細かな視点で選びだしており、民衆の生活がいきいきと彷沸される。ここに田中氏の学識の高さが躍如として表れていよう。
 さて、ここで本章の時代背景や政治情勢を説明する前に、選定した諸史料の内、主要なものについて略述しておきたい。
 本章をみると、政治・軍事関係史料の多くを「大日本維新史料稿本」と、弘前市立図書館所蔵八木橋文庫「弘前藩記事」に依っていることがわかるであろう。前者は現在でも『大日本維新史料』として東京大学史料編纂所から刊行が続いており、その広瀚さは他史料の追随を許さないし、『復古記』にも同史料が収録されており、質・量ともに最高の位置が与えられるものである。
 次に後者の「弘前藩記事」であるが、これは弘前藩の用人職にあった楠美荘司(しょうじ)(太素)と息子の晩翠(ばんすい)が自家に伝える目的で編纂したもので、引用史料の豊富さは他の同時代のものの追随を許さないし、藩重臣間の緊迫した密書や書状なども収められていて、興味深い内容も多い。弘前藩の歴史をみる時に必須なのが「藩庁日記」であるが、戊辰戦争の激化とともに御日記役も所々に駆り出され、明治元年・二年の「藩庁日記」は作成されておらず、そのため戊辰戦争の経過を考察しようとすれば、「弘前藩記事」は最初に参照すべき基本史料のひとつである。いわゆる「勤皇殊功藩」として、戊辰戦争を勝利者の立場で切り抜けてきた弘前藩は、その功績を後世に残すために維新期に関して様々な史料を編纂したが、時に顕賞的であったり、冗長であったり、適切でない部分も目につく。「弘前藩記事」は筆者がすでに翻刻し、刊本として世に出している(坂本壽夫編『弘前藩記事』全五冊、北方新社刊)が、さらにこれを精選・整理して再録することとした。
 また、軍制関連の史料として引用したものに、弘前市立図書館津軽家文書の「御軍政御用留」がある。これは明治元年三月より開始された弘前藩の軍制改革に関する史料を綴ったもので、箱館戦争の事後処理が完了する明治二年十一月までの間、全三〇冊に及ぶ膨大な記録である。同書によると「和蘭新式」と称された弘前藩の軍制改革の実態は詳細に判明するが、明治元年・二年中は非常に政治情勢の史料が多く、軍制史料は要所のみの収録にとどまらざるを得なかった。
 さらに前述した「帰田法」では弘前市立図書館の津軽家文書「諸稟底簿」と「田畑御買入一件留」を中核として史料の編纂を進めた。戊辰戦争が終わって、各役職が旧に復すると、再び藩庁文書の整理が行われたが、「諸稟底簿」は明治三年六月から同四年十一月までの諸部署からの上申書や届け書きを日順に書き留めたものであり、藩制が解体する過程を研究する上ではこれも基本史料といえよう。ただ惜しむらくは筆生(旧御日記役)によって清書されておらず、虫食など、保存状態が良くない。加えて「帰田法」は、廃藩置県後に藩の強権によって庶民より土地を取り上げた政策ではないかとして新政府の疑惑を受けたためか、または廃藩の混乱によってか、きちんとした史料整理がされておらず、「諸稟底簿」やその他の史料からその過程を復元せざるを得ない。
 「帰田法」の対象となった者は士族・卒は勿論のこと、大勢の地主や商人に及んでおり、それらを総括するのは相当の困難を伴う。よって史料の収録に際しては、虫食がなく原文が損なわれていないものや、土地取り上げを受けた地主でも大地主など、最も特徴的なものを対象とした。また、「帰田法」が甚大な影響を与えた地域は津軽地方の在方であり、その実態を考察するために当市域外の史料も多く収録することとした。
 また、本章では第一節第四項に「維新期農民の動向」として弘前市立図書館八木橋文庫の「晴雨日記」(万物変易誌)をとりあげた。これは大光寺組(現南津軽郡平賀町)の農民常治家が天保十五年(一八四四)より明治五年(一八七二)まで書き綴った日記であり、本章ではその内、明治二年(一八六九)のものを収録した。同年は後述するように箱館戦争の終結と戦後の藩政改革にゆれた年であり、加えて夏季の冷涼により大凶作に陥った年であった。よって日記の内容もこうした世事の変遷に対する驚きや、農作物の凶作に関する心配、変動する米値段や諸品の物価が細かに記されており、維新期の農民像を知る上では絶好の史料といえよう。
 以上、雑駁ながら収録史料の特徴を述べたが、次に本章が扱った時代の背景や政治情勢を簡略に紹介したいと思う。
 本章の内容を構成する骨子は大きく以下の四点に分けることができる。第一は東北戊辰戦争に関する弘前藩の対応である。慶応三年(一八六七)十二月、徳川慶喜の大政奉還によって政治情勢は混迷の極に達するが、この前後に京都留守居役の西館平馬(へいま)・赤石礼次郎らは必死に情報の収集に努め、各方面との人脈を作っていく。一方、戦局は翌明治元年正月の鳥羽・伏見の戦いが勃発して、戊辰戦争が開始する。戦端が開かれてすぐに弘前藩は旧幕府・朝廷の両方より参陣を求められるが、時の同藩がとった方針はまず領内を固めて武備の充実をはかり、慎重策に徹することであった。この中で三月十八日に藩は近代戦に対応するために藩兵を総員銃隊とする軍制改革に着手し、急速に訓練を施していった。
 その一方で、当初より勤皇色が強かった秋田藩と、反対に戊辰戦争は薩摩・長州藩の私怨から出たもので、朝敵とされた会津・米沢藩らの寛典処分を主張する仙台藩や盛岡藩よりの使者が来弘し、弘前藩を自陣に引き入れようとした。以後、七月の藩論統一まで弘前藩は奥羽列藩同盟への帰属をめぐる賛否、庄内藩征討応援命令への対応、奥羽鎮撫総督府の領内転陣の諾否をめぐる問題などについて、藩内で激論が闘わされ、時には藩境の強行封鎖も断行された。
 そうした混乱の中、七月十一日に京都留守居西館平馬が弘前藩が宗家と仰ぐ近衛忠熈(ただひろ)・忠房(ただふさ)父子と岩倉具視の書状を担って帰藩し、朝敵になることの危険性を強力に説いた。ここに至りようやく藩論は勤皇に確定し、以後堰を切ったように弘前藩は庄内藩討伐応援のため派兵をしていった。軍事情勢は一挙に緊迫化し、その中で八月五日には成田求馬隊が羽州由利郡吉沢村で庄内藩兵と交戦し、成田以下死傷二一名を出して敗退し、戊辰戦争で初めての戦死者をみた。この八月から九月に北奥羽では熾烈な戦闘が展開していた。秋田藩は盛岡藩によって大館を陥落され、その落人が大挙弘前藩に逃げてきた。奥羽鎮撫総督府は弘前藩に盛岡藩征討を命じ、このために引き起こされた戦闘が九月二十三日の野辺地(のへじ)戦争である。この戦いで弘前藩は死傷四九名を出して惨敗したが、時に会津・庄内・仙台・米沢藩ら朝敵側は降伏しており、盛岡藩からも野辺地戦争直後に降伏状が出され、十月に至って東北地方は官軍によって平定された。
 ところが、その直後の十月十八日に箱館府知事清水谷公考(きんなる)卿から榎本旧幕府脱艦隊襲来の飛報がもたらされ、弘前藩は、この後、その対応に追われていく。本章の骨子の第二が函館戦争である。
 この戦争で弘前藩が一番負担を強いられたのは、翌二年四月から始まる箱館総攻撃までの間、官軍諸藩の兵站を賄うことであった。東北戦争でめざましい軍事功績をおさめられなかった弘前藩は、これを完遂して勤皇の証としようとしたが、長期にわたる官軍の青森滞在は藩財政を圧迫していった。朝廷は後日、官軍賄い方に係わる費用はこれを償還するとしたが、財政基盤が脆弱な新政府にとってそれは不可能であり、藩庫は逼迫し明治二年の凶作とあいまって深刻な影響を受けていた。
 明治二年五月に榎本軍は降伏して、二年にわたった内乱は終結をみた。その後の弘前藩にとって最も重い課題となったのが、新政府の指令する藩治職制の改変への対応であった。つまり、新政府は明治元年から諸藩に対して、従来区々としていた藩制を均一化して、藩勢力を自己の統制下に置くために藩政改革を促していたのだが、箱館戦争に巻き込まれた弘前藩は、これへの対応が大幅に遅れていた。この行政・財政政策の過程をみることが本章の目的の第三である。
 箱館戦争が終結して、その戦後処理がいまだに完了していない六月十二日に、弘前藩は一回目の藩政改革を発表した。その内容は戊辰戦争で大幅に膨れ上がった兵員部を旧に復すことであり、家禄削減を伴わなかった点など、新政府が意図するものとはかけ離れていた。その後、十一月には凶作を背景として上級家臣の家禄を削減する藩政改革も行われたが、この前後から弘前藩では深刻な藩内騒擾が起こり、新政府の出先機関である三陸白石両羽按察使府(あんさつしふ)の視察を受けるようになる。藩内騒擾とは安政年間に十二代藩主に誰を迎えるか、家老西館宇膳と元用人山田登らの間に熾烈な政治闘争があったのだが、その抗争に戊辰戦争中の藩内対立が結びつき、対立の溝は深まっていた。ついに明治三年六月に按察使府権判官菱田重禧(ひしだしげよし)が直接弘前藩に乗り込み、藩首脳を支持して山田らを一挙に排除した。弘前藩の藩政改革が遅々として進まないことに前から不満を抱いていた菱田は、この時に強力な改革を迫り、それを実現させた。この改革では、諸部局が藩庁の徹底した指導下に置かれ、家禄削減も軽格の者に至るまで厳格に行われたのである。
 改革によって藩士の生計は非常に苦しくなり、それを救済するために断行されたのが「帰田法」である。
 「帰田法」は領内の地主らの所持する田地を一〇町歩だけは残し、残りは一反歩三両という廉価で強制的に買い上げるか、献田させて、これを士族卒に配賦して農村に移住させようとの計画である。その際、士族卒に対して従来の家禄も支給し続けることが約束されており、その点において他藩の「帰田法」と異なるのであり、特異な事例として研究者によって昭和三十年代より注目されてきた。本章ではその開始から帰結までを、弘前市域以外の展開も含めながら整理していく。
 「帰田法」実施に当っては藩の歳入をはるかに超過する巨額な資金が必要であり、財政的に破綻の淵にあった弘前藩がなぜそうした試みをなしえたのか、さらに続く近代青森県の経済にどのような影響を与えたのかをも考える材料としたい。これが本章の第四の骨子である。
 これらの他にも、田中秀和氏の民衆史料によって宗教政策や民衆生活が浮き彫りにされるであろう。本章が近世と近代の間の明快な連結点となることを願っている。 (解説 坂本壽夫)