文書名
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朝鮮使日光社参に付鞍置馬用立御奉書
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文書名(カナ)
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チョウセンシ ニッコウ シャサン ニ ツキ クラオキウマ ヨウダテ ゴホウショ
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文書名(ローマ字)
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Chosenshi nikko syasan ni tsuki kuraokiuma yodate gohosyo
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別名
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別名(カナ)
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別名(ローマ字)
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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12月14日 津軽土佐守(信義)宛
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差出・作成者
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差出・作成者(カナ)
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差出・作成者(ローマ字)
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宛所
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津軽土佐守(信義)
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宛所(カナ)
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ツガル トサノカミ ノブヨシ
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宛所(ローマ字)
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Tsugaru Tosanokami Nobuyoshi
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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寛永13年(1636)
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作成年終
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数量
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1通
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形状
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寸法
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寸法(縦)
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40.5cm
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寸法(横)
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55.5cm
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材質
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形態に関する注記
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封紙31×23.5cm
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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写(原本)
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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関連する人物・団体(カナ)
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関連する人物・団体(ローマ字)
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内容年
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寛永13年(1636)
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内容年終
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内容
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阿部豊後守忠秋,松平伊豆守信綱,酒井讃岐守忠勝,土井大炊頭利勝より
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内容(カナ)
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アベ ブンゴノカミ タダアキ マツダイラ イズノカミ ノブツナ サカイ サヌキノカミ タダカツ ドイ オオイノカミ トシカツ ヨリ
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内容(ローマ字)
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Abe Bungonokami Tadaaki Matsudaira Izuminokami Nobutsuna Sakai Sanukinokami Tadakatsu Doioinokami Toshikatsu yori
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解題・説明
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本文書は、内容から寛永13年(1636)12月14日付のもので、連署しているのは当時の幕府年寄(としより)(老中(ろうじゅう))土井利勝(どいとしかつ)(1573~1644)・酒井忠勝(さかいただかつ)(1587~1662)・松平信綱(まつだいらのぶつな)(1596~1662)・阿部忠秋(あべただあき)(1602~1675)で、彼らから「津軽土佐守(とさのかみ)」こと、弘前藩主津軽信義(つがるのぶよし)(1619~1655)に宛てたものである。 ここにみるような文書形式を「江戸幕府老中奉書(えどばくふろうじゅうほうしょ)」と呼び、その中で、本状のように老中が連名で署名を加えているものを「江戸幕府老中連署奉書(えどばくふろうじゅうれんしょほうしょ)」という。古文書学上で、奉書とは、上位者に近侍するものが、上位者の意向を伝えるために、近侍の名前で発給するものであるが、老中奉書は、江戸幕府の老中が将軍の意向を奉じて発給するもので、幕府の命令伝達を目的とする文書の中で、もっとも代表的かつ重要なものとされる。 老中奉書の用途を大別すると、儀礼的なものと、政治的な意味を持ち命令を下達するものとに大別される。前者の場合、将軍が端午(たんご)・重陽(ちょうよう)・歳暮(せいぼ)の三季献上(さんきけんじょう)に対して返礼として発給する御内書(ごないしょ)に添える副奉書(そえほうしょ)、それ以外の年頭(ねんとう)・八朔(はっさく)などの献上物に対する返書がある。一方後者の事例としては、キリシタン禁令、御預人(おあずけにん)赦免などの伝達,大名に対し手伝普請(てつだいふしん)・火の番・門番・朝鮮通信使の馳走などを命じる際の達し、城郭修復申請に対する許可などが挙げられる。 本文書のような老中連署奉書を様式面から見ると,まず料紙(りょうし)は奉書紙(ほうしょし)を用い、封紙(ふうし)も共紙(ともがみ)が用いられる。本紙(ほんし)の形態は折紙(おりがみ)である。したがって、紙の横中央部で折り返し、常に折り目を下として文字が記される。また、書状形式を基調としているため、書止文言(かきとめもんごん)が書状に用いられる「恐惶謹言(きょうこうきんげん)」であったり、必要に応じて追伸にあたる追而書(おってがき)(猶々書とも)が記されたり、日付部分は年号を有さず月日のみが記されるなどの特色を有している(ただし、城郭修復を許可する奉書には証拠能力が必要となるため、付年号(つけねんごう)が記載される)。 老中連署奉書の場合、通常は老中全員が連署するが、宛所に近いものが上席で、以下序列が下がり、日付の下の者が末席となる(例外として月番老中が連署の末席に署名することがある)。一方、献上品の収受、将軍に対する機嫌伺への返信等の小事には、月番老中のみの署判で差し出された。 文書中にいう「朝鮮人」とは、この年来朝した朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)を指す。朝鮮通信使とは江戸時代に、日本における将軍の代替わりなどの慶事に際し、朝鮮国王が「日本国王」(日本の外交権者)に国書を手交するために派遣した外交使節で、当時外交権を幕府が掌握していたため、征夷大将軍が国書を受領し、返書を発給した。朝鮮からの外交使節は徳川政権成立後12回来日しており、日本側はこれらをすべて通信使とみなしたが、朝鮮側の認識では初めの3回は徳川将軍からの国書への回答と、豊臣秀吉による朝鮮侵略(文禄・慶長の役)によって日本に拉致された被擄人(ひろにん)の刷還(さっかん)を目的とした「回答兼刷還使」であり、寛永13年以降の9回を通信使とした。また、元和3年(1617)の伏見(ふしみ)(現京都府京都市伏見区)における聘礼(へいれい)、文化8年(1811)の対馬(つしま)(現長崎県)での易地聘礼(えきちへいれい)を除く10回は、使節がはるばる江戸に赴いた。 この寛永13年に来日した朝鮮通信使に対しては、将軍徳川家光(とくがわいえみつ)(1604~1651)から朝鮮との国交を掌る対馬藩主宗義成(そうよしなり)(1604~1657)に、江戸での儀礼が終了した後、新築されたばかりの日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)に参詣させるよう厳命があった。要請を受けた通信使側は、先例がなく、国王からの命令にも参詣することが含まれていないとして拒否する姿勢を見せたが、対馬藩側の半ば脅迫、半ば泣訴に近い説得によって、結局日光行きを承諾することとなった。通信使は12月17日に江戸を出発し、21日に日光東照宮を参詣、24日に江戸に帰着している(「通航一覧(つうこういちらん)」巻之八十八・朝鮮国部六十四)。 この文書で幕府は、津軽信義に対して、朝鮮通信使が徳川家康を祀る日光山(にっこうさん)(日光東照宮)を参詣するにあたり、騎乗できるように鞍の皆具(かいぐ)を備えた馬三疋を、江戸より日光までの区間において差し出し、上り・下り往復の送迎を行うよう命じるとともに、鞍置き馬を差し出す期日については、馳走役(ちそうやく)の安藤右京進(あんどううきょうのしん)(重長(しげなが)、上野高崎藩主、1600~1657)・脇坂淡路守(わきさかあわじのかみ)(安元(やすもと)、信濃飯田藩主、1584~1654)に問い合わせること、さらに、だいたい来る16日・17日ごろに通信使の人々が江戸を出立するという見込みを伝えている。 津軽信義に対して幕府が賦課したのは、乗馬用の馬を馬具付きで差し出す「鞍馬役(くらうまやく)」と呼ばれるものである。この日光参詣については、津軽家のほか、水戸藩主徳川頼房(とくがわよりふさ)(1603~1661)、仙台藩主伊達忠宗(だてただむね)(1600~1658)、会津藩主加藤明成(かとうあきなり)(1592~1661)、米沢藩主上杉定勝(うえすぎさだかつ)(1604~1645)、秋田藩主佐竹義隆(さたけよしたか)(1609~1672)など、東国大名を中心にあわせて15家に対して鞍馬役が賦課され、190疋の鞍馬が提供されている(前掲「通航一覧」巻之八十八)。 江戸時代の将軍と大名の間の関係は、主君(しゅくん)である将軍が所領を家臣たる大名に給与・安堵したり、恩典を与えたりする(「御恩(ごおん)」)のに対し、大名が代償として軍役(ぐんやく)などの奉仕(「奉公(ほうこう)」)を義務付けられている主従関係(しゅじゅうかんけい)を基礎としていた。大名の奉仕にはさまざまな内容が含まれているが、この朝鮮通信使への接待・馳走などの負担もそれに含まれる。この年、我が国を訪れた使節の目的は、「泰平祝賀(たいへいしゅくが)」であったが、幕府はこれを国内支配の安定と秩序を国内外に示す絶好の機会と捉えた。また、幕府が祭祀し、絢爛豪華な建築によって幕府の力を如実に示す日光東照宮への参詣を実施することによって、幕府の創設者で東照宮の祭神である徳川家康の威徳を示すとともに、政権の正統性を国際的認知という形をとってより強く印象付けようとしたといえる。一方、幕府は主従関係の原則に基づくかたちで外交儀礼に大名を参加させることを通して、大名に威信を示し、徳川政権を支える立場であることを再認識させ、政権の強化を図ったのである。幕府による津軽家に対する「鞍馬役」賦課もこの認識の下でなされているのである。(千葉一大) 【参考文献】 『通航一覧』第三(国書刊行会、1913年) 松尾美惠子「奉公」(『日本古文書学講座 第6巻 近世編Ⅰ』雄山閣出版、1979年) 日本歴史学会編『概説古文書学』近世編(吉川弘文館、1989年) 仲尾宏『朝鮮通信使と徳川幕府』(明石書店、1997年) 笠谷和比古『近世武家社会の基礎構造』(吉川弘文館、1993年) 土田良一「朝鮮使節通行と大名課役─寛永期を中心に─」(『地方史研究』304、1998年) 笠谷和比古『近世武家文書の研究』(法政大学出版局、1998年) 吉田光男/田代和生・六反田豊・伊藤幸司・橋本雄・米谷均「朝鮮通信使(近世編)」(日韓歴史共同研究委員会編『日韓歴史共同研究報告書 第2分科篇』日韓歴史共同研究委員会、2005年) 張舜順「通信使研究の現況と課題」(同上書)
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朝鮮通信使の日光社参時鞍馬役を命じた江戸幕府老中連署奉書(『新編弘前市史』通史編2(近世1) 第2章第一節)
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