文書名
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就日光御修復被仰渡覚帳
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文書名(カナ)
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ニッコウ ゴシュウフク ニ ツキ オオセワタサル オボエ チョウ
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文書名(ローマ字)
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Nikko gosyuhuku ni tsuki osewatasaru oboe cho
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別名
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天和3年
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別名(カナ)
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テンナ サンネン
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別名(ローマ字)
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Tenna sannen
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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差出・作成者
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津軽玄蕃 田村藤太夫 堀傳左衛門
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差出・作成者(カナ)
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ツガル ゲンバ タムラ トウダユウ ホリ デンザエモン
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差出・作成者(ローマ字)
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Tsugaru Genba Tamura Toudayu Hori Denzaemon
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宛所
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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天和3年(1683)
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作成年終
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数量
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1冊(102丁)
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形状
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寸法
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寸法(縦)
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31cm
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寸法(横)
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23.5cm
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材質
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形態に関する注記
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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写
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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関連する人物・団体(カナ)
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関連する人物・団体(ローマ字)
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内容年
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1683~1684
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内容年終
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内容
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従閏五月廿六日至干貞享元甲子年三月廿九日
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内容(カナ)
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ウルウ ゴガツ ニジュウロクニチ ヨリ ジョウキョウ ガン キノエネ ノ トシ サンガツ ニジュウクニチ ニ イタル
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内容(ローマ字)
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Uru gogatsu nijurokunichi yori jokyo gan kinoene no toshi sangatsu nijukunichi ni itaru
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解題・説明
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武家社会における主従関係は、主君が臣下に対して所領を給与し(御恩(ごおん))、それに対して臣下は所領を基礎として主君に対する奉仕の義務を負う(奉公(ほうこう))ことによって成り立っている。「御恩」と「奉公」の関係自体は、日本史の教科書において、鎌倉時代の将軍と御家人の主従関係を説明する際に取り上げられているのでおなじみのものであるが、江戸時代の徳川将軍と大名の間の主従関係も基本的にはこの原則に則っていた。すなわち、大名は将軍から1万石以上の領地を与えられる代わりに、将軍に対する種々の奉公義務を負っていた。 金澤理康氏はこれを幕府に対する大名の「封建負担」であると位置づけて、次のような種類があるとする。 ① 忠誠負担=大名が将軍に対して忠誠を尽くすこと ② 参覲(勤)負担=忠誠の具体的な姿として参覲交替(参勤交代)を行うこと ③ 登城負担=所定日時に、所定の方式に従い、江戸城に登城すること ④ 能力負担=自身が武芸や行政能力に十分なる資質を有し、特に領内統治を行う能力を有すること ⑤ 役方負担=自費をもって老中をはじめとする幕府の諸職を勤務すること ⑥ 番方負担=自費をもって江戸城または大坂・駿府などの幕府の支城、改易大名の城番の警備、大名火消などの任に当たること ⑦ 土木負担=幕府より分担を命じられた一時的または経常的土木事業を果たすこと ⑧ 定式御祝儀負担=幕府の定期的な慶事に金品を提供すること ⑨ 臨時御祝儀負担=幕府の慶事が臨時に発生した場合に金品を提供すること ⑩ 禁裏御吉兆負担=禁裏に慶事・不幸ある場合、幕府所定の金品を提供すること ⑪ 香典負担=幕府に不幸ある場合、幕府所定の金品を提供すること ⑫ 御礼負担=初目見得、婚姻許可、家督許可、隠居許可、参勤などの際に、御礼の意味で幕府所定の金品を提供すること ⑬ 法令負担=大名自身が幕府の統制に服して行動し、領内に対してはなるべく幕府法令と異ならざる法令を布くこと ⑭ 統制負担=自己の家来ならびに領民に対して、幕府法の直接適用を認容すること ⑮ 軍役負担=幕府の軍事動員に応じて武力を提供すること これらのうち、②以下は、①の忠誠負担を具体的にしたものといえる。もっとも代表的な大名の奉公は金澤氏による分類の⑮に当たる軍事動員(軍役(ぐんやく))であって、領地を基礎に編成した家臣団から、領知高(りょうちだか)に見合う一定数量の武力(軍勢)を提供した。江戸時代を通じて実際に大名に対して幕府が軍役を発動したのは、慶長19年(1614)からその翌年にかけて発生した大坂の陣、寛永14(1637)・15年の島原の乱、江戸時代後期の異国船警備のための海防や蝦夷地警備、元治元年(1864)・慶応2年(1866)の長州征伐(ちょうしゅうせいばつ)などが挙げられる。 豊臣氏が滅んだ大坂夏の陣の終了は、すなわち戦国時代以来の戦乱の終幕でもあり(「元和偃武(げんなえんぶ)」)、その後、幕藩体制そのものをゆるがすような大規模な戦乱は長らく発生しなかった。このため大名の奉公は、軍役と同一の原理に基づいて、人数や武器、さらには課役の費用を提供する軍事行動に準じた性格を持つ課役へと変化していく。その代表的なものは幕府が行う江戸城・駿府城・名古屋城・大坂城などの城普請、木曽川などの河川改修、日光山や寛永寺・増上寺などの寺社の造営・修理といった土木工事への動員であり、これを普請役(ふしんやく)(手伝普請(てつだいぶしん))と呼ぶ。それ以外にもこの軍事的性格に準じた課役には、参勤交代、幕領検地、江戸城の門番・火の番、大坂・駿府の加番(かばん)、改易大名(かいえきだいみょう)の城地受取と在番、朝廷が派遣する勅使(ちょくし)・院使(いんし)などの饗応、朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)や琉球来聘使(りゅうきゅうらいへいし)の接待、関所の守衛、罪人の御預(おあずけ)、老中をはじめとする幕府役職への就任などを挙げることができる。 日光の地は、天応2年(782)、勝道上人が男体山を中心とする山岳信仰の霊場として開山し、現在の二荒山神社や輪王寺の基礎をつくった。関東地方における信仰の中心として、中世以降も関東武士の崇敬の対象となった。元和2年(1616)4月17日、徳川家康(とくがわいえやす)が駿府城(すんぷじょう)(現静岡県静岡市)で75歳の生涯を閉じると、遺言により、遺骸はまず駿府郊外の久能山(くのうさん)に葬られ、1年後に日光山に移された。家康に対しては、元和3年2月には朝廷から「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」の神名宣下があり、家康を祀る社は「東照社」と号することになった。正保2年(1645)11月には宮号宣下があり、東照社は東照宮と呼ばれるようになった。現在の社殿は徳川家光が寛永13年(1636)に造替したものである。慶安4年(1651)4月20日に家光が死去すると、遺骸は日光に葬られ、翌年承応元年(1653年)、大猷院廟(たいゆういんびょう)が造営された。 日光山にある堂社の修復は、建物が装飾的であることもあって、頻繁に実施されたが、特に火災・地震・暴風雨雪・石垣崩落などが発生して被害が生じた場合には、造替・大修復は大名に対して普請役を課し、労働力や資材を提供させて行った。手伝普請の回数は江戸時代を通して36回に及んでいる。 天和3年(1683)5月23日辰中刻に発生した大地震によって、東照宮・大猷院廟の宝塔の九輪、大猷院廟の仁王門左右の石垣、輪王寺宮(りんのうじのみや)御殿・輪王寺(りんのうじ)本坊の総石垣、坊舎の石垣が崩壊、翌日の大地震でも宝塔の笠石が損壊し、諸大名献上の石灯篭が残らず倒れ、石垣の崩壊も多発した。幕府は閏5月から修理を開始し、同27日には、東照宮と輪王寺本坊の普請(普請において「御宮方」と称された)を二本松藩主丹羽長次・磐城平(いわきたいら)藩主内藤義泰・弘前藩主津軽信政に、また大猷院廟・慈眼大師堂(じげんだいしどう)(家康側近である大僧正天海の廟所)・輪王寺宮御殿の普請(普請において「御堂方」と称された)を松代藩主真田幸道・新庄藩主戸沢正誠に対してそれぞれ普請役を課した。本史料はこの手伝普請に関する弘前藩の動向、さらに関係文書を克明に記したものである。 本史料を中心にごく簡単に普請の経過をまとめると、弘前藩では普請役下命後、7月10日に惣奉行津軽玄蕃政朝(つがるげんばまさとも)(藩主信政実弟)以下の派遣人員が公表され、神霊や諸堂の本尊を遷宮・遷座させたのち、7月29日に現地で普請が始められている。6月13日に弘前藩の担当として割り当てられた普請は、東照宮においては、家康の廟所である奥社(おくしゃ)においてそれまでの石造宝塔の撤去と銅造宝塔の新規取り立て、奥社の石垣普請、奥社宝蔵(ほうぞう)の地盤工事と修復、本地堂(ほんじどう)南方の石垣修築と石柵立て直し、経蔵(きょうぞう)・宝蔵・御蔵周辺の石垣積み直し、仁王門前から本地堂西の石垣修築と石柵立て直し、仁王門両脇石柵立て直し、本地堂前灯篭堂の地盤修復、中の御蔵・下の御蔵・仁王門・下の番所の修復と石垣修復、および輪王寺本坊東の裏門より北へ折り廻す石垣の積み直しであった。藩主信政自身も9月・11月の二度にわたり日光に赴いて、工事の見分を行っている。10月12日に7尺5寸四方の宝塔の屋根を廟所まで運搬し、同月中に弘前藩が普請を分担した石垣が出来、11月上旬には普請全体が完了し、遷宮、供養の儀式が行われている。12月2日に携わった大名の家臣に対して幕府から褒賞があり、普請役そのものの完了をみている。 なお、本史料は、長谷川成一氏により、「「天和三年就日光御修復被仰渡覚帳」と若干の問題(上)─新史料の紹介をかねて─」(『特定研究報告書 北日本文化の継承と変容』弘前大学人文学部人文学科特定研究事務局、1987年)、「史料紹介「天和三年就日光御修復被仰渡覚帳」(弘前図書館蔵)」(『弘前大学國史研究』89、1989年)として翻刻が行われているので参照されたい。(千葉一大) 【参考文献】 金澤理康「大名の封建負担」(『早稲田法学』22、1945年) 善積美惠子「手伝普請について」(『学習院大学文学部研究年報』14、1968年) 松尾美惠子「奉公」(『日本古文書学講座 第6巻 近世Ⅰ』雄山閣出版、1979年) 日光市史編さん委員会編集『日光市史』中巻(日光市、1979年) 長谷川成一「北方辺境藩研究序説─津軽藩に課せられた公役の分析を中心に─」(同編『津軽藩の基礎的研究』国書刊行会、1984年)
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解題・説明(英語)
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自治体史掲載
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天和三年就日光御修復被仰渡覚帳(『新編弘前市史』通史編2(近世1) 第2章第一節)
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