解題・説明
|
これら一連の文書は、弘前藩士である神家(じんけ)に対して、慶長14年(1609)と元和7年(1622)に藩主津軽信枚(つがるのぶひら)、同じく信吉(のぶよし)(のち信義(のぶよし))が寛永9年(1632)と同11年(1634)にそれぞれ知行(ちぎょう)を宛がったことを示す4通の文書である。 このなかで、もっとも古いものは、慶長14年8月6日付の津軽信枚が神左馬丞に宛てたもので、館田村(たちたむら)(現平川市(ひらかわし)館田(たちた))において高19石余を知行として与えることを記す。次に古いのは元和7年3月2日付で、信枚が神左馬丞に宛てたもので、前のものと同内容である。3通目は寛永9年2月10日付で神左馬丞に宛てた信吉のものだが、こちらは館山村(たてやまむら)(現平川市館山)の小館という小字(こあざ)において11石を与えるという内容だが、文面に「荒」という文字がみえる。つまり、この土地は田畑として開発されておらず、土地を与えられた神左馬丞がその土地を開墾し、示された石高分の田畑にするという前提のもとで土地が与えられたものである。最後のものは寛永11年正月11日付の信吉のもので、本来の知行である館田村の高19石余を知行として与えるというものである。 武家社会では、土地を媒介として主従関係が成立しており、主君が家臣に「御恩(ごおん)」として土地を給与し、家臣はそれを基礎として主君に対する「奉公(ほうこう)」を勤めた。知行とは、近世に統一政権(豊臣政権・江戸幕府)や諸藩が家臣に支給した土地・俸禄をいう。 豊臣政権の実施した太閤検地の実施などを契機に、全国的に石高制(こくだかせい)が採用され、大名は、石高にもとづいて家臣に知行地(ちぎょうち)(給地(きゅうち)、給知(きゅうち)ともいう)を与えるようになった。江戸時代に入ってからの知行の制度は、①地方知行制(じかたちぎょうせい)、②蔵米知行制(くらまいちぎょうせい)(俸禄制(ほうろくせい))、③扶持米取(ふちまいどり)の三つの形態に大別される。 このうち、③の扶持米取は、下級の家臣に対する給与制度で、1日あたりの米の支給を1人扶持と定め、何人扶持というぐあいに米や金を支給される場合をいう。②に含まれることが多いため、ここでも①・②を主に説明する。 ①の地方知行制は、大名が家臣に知行地を与え、その知行地内の年貢(ねんぐ)の徴収権、百姓に夫役を命じたり、裁判を行ったりすることなどをも認め、土地と農民の直接支配を行わせた制度である。近世初頭においては、大名が統一政権から課された軍事動員や普請役(ふしんやく)などの割り当てを家臣に転嫁する必要性などから、多くの藩で地方知行制がとられた。しかし、近世大名の家臣団は城下集住(じょうかしゅうじゅう)を強制されることになったため、家臣と土地、農民との結びつきは弱いものだった。また大名は領内支配を強化する過程で、家臣の知行地に対する結びつきを弱めるための施策を行った。その代表的なものは、大名が家臣の宛行や没収の権限を掌握し、知行割(ちぎょうわり)を実施して、家臣に従来とは異なる知行地を与え直して、知行地との結び付きを断ち切るとともに、知行地を領内各所に分散させて宛がうというものである。これを村単位にみれば、2人以上の知行地が分割して宛がわれることになった。このような形態を相給(あいきゅう)と呼ぶ。この他にも、裁判権の吸収や年貢徴収権も領主の統制のもとに置くなど、知行権を徐々に制限する大名の施策の結果、給人の知行権はしだいに失われていった。 一方、②の蔵米知行制は、大名が藩の領地・農民のすべてを直接に支配し、藩庫に収納された年貢米や金銭を、家臣の禄高に応じて支給する知行制度である。したがって、家臣に給与されるのは俸禄である米・金銭となり、知行地が給与されないことになる。地方知行制の形骸化により、17世紀半ばごろからこの制度を導入した藩が増え、元禄(げんろく)年間(1688~1704)に書かれた「土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)」(東京大学史料編纂所蔵)によれば、243大名のうち、地方知行制を採用した藩は全体の16%の42家にすぎず、多くの藩において蔵米知行制が採用された(ただし、採用していた大名家は外様大大名が多く、所領の規模面からは大名領全体の55.37%が採用していたことになる)。 弘前藩においても、慶長(けいちょう)16年(1611)に藩政の中心となる弘前城が完成すると、主な家臣は、城の防備、城下振興、藩政における職務の分担などのため、形成された城下町に集住するようになる。藩士たちは知行地を給与され、直接支配していたが、正保(しょうほう)5年(1648)2月13日に津軽信義が弟の百助信隆に高300石を与えた文書に記載された知行所の村名を見ると、一か所にまとめられて与えられていたわけではなく、領内の各所に分散されて支給されており、このことから知行地と藩士の結びつきは弱められたことがわかる。 やがて、延宝(えんぽう)7年(1679)には上級藩士の知行が蔵米渡となり、さらに貞享(じょうきょう)2年(1685)4月からはすべての藩士の知行を蔵米渡とする俸禄制が実施された。弘前藩の俸禄は、石高で示される「知行(ちぎょう)」、蔵米の俵の数で支給される「俵子(ひょうす)」、4斗俵1俵を銭15匁の割合で支給する「金給(きんきゅう)」、1人1日米5合の割で1年分を支給する「扶持(ふち)」の4種類があり、功労のある場合俸禄の加増が行われた。 こののち、正徳(しょうとく)2年(1711)に一旦地方知行が復活し(俵子・金給・扶持は従来通り)、宝暦(ほうれき)6年(1756)6月、乳井貢(にゅういみつぎ)が主導した宝暦の藩政改革のもとで再度俸禄制となり、翌年7月にはまた地方知行制の復活という変遷を経て、安永(あんえい)3年(1774)7月に三度俸禄制が実施され、明治維新に至るまで続くことになる。なお、本俸である家禄のほかに、役職によって支給される勤務手当「席禄(せきろく)」があり、上級藩士の場合は「役知(やくち)」、下級藩士の場合は「役料(やくりょう)」と称した。 俸禄は財政難や飢饉の影響で、しばしば「御借米(おかりまい)」「御借上(おかりあげ)」と称して支給が減らされた。天明の大飢饉の被害が大きかった天明(てんめい)3年(1783)11月から同5年9月にかけては、知行・俵子・扶持などの別を全廃して、藩士すべてに一律4合扶持・月々銭170目の支給という思い切った措置がとられたこともある。 さて、大名が家臣に対して、知行を与えることを宛行(あてがい)という。知行を宛行うために発給される文書を宛行状(あてがいじょう)(知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう))という。通常諸藩においてよくみられる知行宛行状の様式は、形状が折紙(おりがみ)で、大名の花押を記した判物(はんもつ)、または黒肉を用いて大名の印章を捺印した黒印状(こくいんじょう)とされる。大凡、本文において、地方知行制下では、どこの土地をどれだけ与えるかが明記されていたが、俸禄制下では禄高の記載のみとなる。そして、文末に知行の権利を付与することに誤りがない旨の文言が認められる。さらに、日付の上に年号を記すが、竪紙の場合には年号が日付の上に記されるのに対して(書下年号(かきくだしねんごう))、折紙の場合には日付の横に小さく記される(脇付年号(わきづけねんごう))。日付の下の差出には藩主の名前が署され、判子(印判)を捺す。判子のみを捺す略式のタイプもある。最後の宛所には知行を宛がわれる人物(寺社ならば寺社名)が記され、人名の場合には「殿」「との」などの敬称が付される。 弘前藩の場合、藩主の寺社や家臣宛の宛行状には黒印状が用いられた。黒印状に用いられた藩主の印判については、鶴巻秀樹(つるまきひでき)氏の研究に詳しい。それによれば、印影として為信は2種類、信枚は1種、信義と信政は3種、信寿(のぶひさ)は2種類、信著(のぶあき)以降(信明(のぶはる(のぶあきら))を除く)は1種類ずつあり、弘前藩歴代藩主12人中、11藩主、17種類の黒印を確認することができる。 弘前藩主の知行宛行状の現物で確認できる最も古い文書は、現在のところ、慶長7年(1602)10月13日付種市藤三郎宛津軽為信(つがるためのぶ)黒印状(弘前市立博物館蔵)である。初期の藩主の発給した宛行状の形状に多くみられるのは、他藩のそれとは異なり、料紙としてここに掲げた史料に見るように短冊状の切紙を用い、その端に「知行之目録」と書かれ、石高と宛行う村の名を記し、最後に年記と月日、そして藩主の黒印が捺されるというものである。一方、慶長14年(1609)7月16日付で津軽信枚が為信の菩提寺革秀寺(かくしゅうじ)に発給した寺領宛行状のように全紙の竪紙を用いたものも見受けられる。初期の段階では、発給者に応じて、何らかの様式の使い分けが存在した可能性がある。 やがて、弘前藩の知行関係文書は、知行宛行状と知行の細目を記した知行目録が分化し、宛行状も禄高の差異によって宛行や書留の文言、藩主署名の有無、宛所の敬称「殿」「とのへ」の使用の差異、「殿」字の崩し方、「とのへ」の「へ」字の長短の書き分けなど、書札礼が厳密化されるようになる。黒印の捺印は藩主自らが行う定めであったという。また、藩主の代替わりや知行制度の転換を契機に、家臣へ発給する知行宛行状の日付をある特定の日に同一化し、一斉発給の形をとるようになる。例えば3代藩主信義は寛永11年(1634)正月11日と同21年正月20日、4代藩主信政は寛文元年(1661)11月10日と貞享4年(1687)正月18日、5代藩主信寿は正徳2年(1712)8月21日、6代藩主信著は元文元年(1736)閏11月12日、7代藩主信寧が宝暦6年(1756)閏11月12日という具合である。なお、信寿は享保7年(1722)12月朔日にも臨時に発給を行っている。 貞享4年に発給された知行宛行状は、蔵米支給であるために、文面から知行地の地名の記載がなくなり、知行高のみが記載されたが、地方知行制の復活に伴って信寿・信著が発給した知行宛行状には知行目録が付され、一方宝暦6年に発給された7代藩主信寧の知行宛行状においては、俸禄制の復活に伴い知行目録が喪失するなど、藩の知行制度の転換に伴って、知行宛行状の書式や発給文書そのものにも変化が及んでいる。 一方、8代藩主信明は知行宛行状の発給を行っていない。8年間の藩主在任中に黒印状を発行することなく寛政3年(1791)に亡くなったからである。黒石津軽家から信明の養子となり跡を継いだ9代藩主津軽寧親は、寛政6年に知行宛行状の発給を行った。この折の朱印状発給は、前年から実施された禄高200石以下の藩士を土着させる政策推進のための動機付けという意図を持った発給であったと考えられるが、そこには従来の知行宛行状に見られない、「先代雖有賜印之意不及其事、則以予印給之、如旧知全可領知者也」という文面があった。すなわち、信明が知行宛行状発給の意思を持ちながらもそれを果たせないまま亡くなったため、その遺志を継ぎ津軽家を承継した寧親の印をもって印判状を発給し、旧来通りの知行を再確認するという意味のことを明記したのである。寧親は、あえて自らの黒印状にこの文言を入れることで、家臣たちに、分家から宗家の跡を継いだ自らの藩主としての正統性を示したものと考えられている。ただし、この折には、藩士土着が行われていたにもかかわらず知行地の記載がなく、俸禄制と同様の書式による宛行状が発給されている。これについて石塚雄士(いしづかゆうじ)氏は、蔵米知行制であった信明時代の発給の意思を強調する意図からのものという見解を示している。 天保(てんぽう)10年(1839)、黒石藩主津軽順徳(ゆきのり)が、隠居した津軽信順(のぶゆき)の跡を承け、本家を相続して弘前藩主となった。翌年3月、順徳は家中に対し知行宛行状を発給した。順徳は、天保13年(1842)に実名を順承(ゆきつぐ)と改めている。前掲の鶴巻氏の論稿によれば、現在、弘前市立博物館に所蔵される歴代弘前藩主の使用した印章のうち、知行宛行状に捺印される印面径4㎝程度の黒印は、信寿・信寧・寧親・順承・承烈(つぐてる)(のち承昭(つぐあきら))の5顆が残されている。これらと現存の知行宛行状に残されている黒印の印影と比較すると、信寿・信寧・寧親・承烈のものは確認できるものの、「順承」黒印の知行宛行状は発見されていない。一方、知行宛行状発給に使用された「順徳」黒印も今のところ発見されていない。 貞享2年の蔵米支給への転換を契機として、弘前藩においては、知行宛行状の発給に至る手続きが整えられたようである。江戸時代中期に書かれた「奥富士物語」(市立弘前図書館蔵)巻一に、知行宛行状の交付に至る手続きがまとめられている。その手順は、まず、発給前に代々の藩主が発給した知行宛行状の提出が求められ、藩士は麻裃(あさがみしも)着用の上で宛行状持参のうえ登城し、本丸御殿鷺之間(さぎのま)において、御用懸(ごようがかり)の書役(かきやく)に提出して内容の確認作業が行われ、その後先判が返却される。宝暦6年の信寧による宛行状発給以降は、先祖代々に与えられた宛行状は写を作成して提出することに改められている。発給儀礼は本丸御殿において数日間にわたって実施されるが、藩主が発給儀礼に立ち会い、その面前で宛行状の手交が行われるのが特徴である。初日にはまず山水之間において、家老から大寄合までの役職者に、藩主が直々に宛行状を授ける。同日、大目付以下手廻組の藩士に対しても発給されるが、こちらは藩主が山水之間の上段に着座し、隣の梅之間で御用懸の家老から宛行状が手交される。2日目は前日同様、藩主が山水之間上段に出座の上、御馬廻組・同格の藩士に対して、梅之間で御用懸の家老から宛行状が手交される。両日ともにそれぞれの組頭が部屋の入り口に着座して発給に立ち会っている。3日目には寺社に対しての発給が行われる。藩主は菊之間上段に着座し、最勝院が竹之間、独礼を許された寺社は芙蓉之間において、それぞれ家老から宛行状が手交される。一方、それ以外の寺社に対しては詰座敷上之間で用人から手交される。宛行状受給者の役職や定められた格式によって、授与の場所や手渡す人物が異なり、また着座する藩主からの距離によって、その立場というものが厳密に定められていることがわかる。 津軽信政はある時、「御知行御黒印ハまさかの時の験にも相成候ニ付、銘々大切ニ所持するか能そ」と語ったという。家臣たちは、自らの土地の所有権、得られる収入を保証する書類として、さらは来るべき次代の藩主の下での再発給の際の改めに備えて、知行宛行状を大切に保管した。信政のいう「験(しるし)」に当てはまるかどうかは定かではないが、大切に先祖に与えられた知行宛行状を保存していた者が、藩から先祖の功績について問われた際、黒印状を提出して、改めて先祖の功績が再び顕れることにつながったこともある。一方、元文3年(1738)に、藩士磯谷瀧之助が妻の悋気によって宛行状を火中に投じられ(ご丁寧にも藩主の黒印の部分だけ切り抜かれて残されていた)、知行召し上げ、永の暇を与えられるなど、紛失や扱いのずさんさを咎められ、大ごとに至った例もある。ただ、磯谷の場合、妻が宛行状を焼却したのちに自害に及んでいるため、宛行状の問題以前に、家庭内の問題が相当に深刻だったことがうかがわれる。(千葉一大) 【参考文献】 工藤主善(他山)「旧津軽藩官制・職制・禄制・租税則」(国立公文書館蔵) 弘前市史編纂委員会編『弘前市史』藩政編(弘前市、1963年) 金井圓『藩政』(至文堂、1966年) 『みちのく双書特輯 津軽史第4巻』(青森県文化財保護協会、1974年) 金井圓「領知」(『日本古文書学講座 第6巻 近世編Ⅰ』雄山閣出版、1979年) 神崎彰利「知行」(同上書所収) 山上笙介『青森県の文化シリーズ 17 津軽の武士1』・『青森県の文化シリーズ 18 津軽の武士2』(北方新社、1982年) 日本歴史学会編『概説古文書学 近世編』(吉川弘文館、1989年) 石塚雄士「[史料紹介]弘前市成田裕家文書」(『弘前大学國史研究』117、2004年) 白取幸子「弘前藩歴代藩主印と近世の印章」(弘前市立博物館編集・発行『弘前市立図書館所蔵史料調査報告書 津軽家印章・糸印』、2008年) 鶴巻秀樹「津軽家印章の使用例と選文」(同上書所収)
|