文書名
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弘前藩庁日記(江戸日記)
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文書名(カナ)
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ヒロサキ ハンチョウ ニッキ エド ニッキ
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文書名(ローマ字)
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Hirosaki hancho nikki edo nikki
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別名
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元禄6年12月18日条
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別名(カナ)
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ゲンロク ロクネン ジュウニガツ ジュウハチニチ ジョウ
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別名(ローマ字)
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Genroku juninen junigatsu juhachinichi jo
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文書名(欧文)
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文書名に関する注記
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差出・作成者
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御日記方編
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差出・作成者(カナ)
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オニッキ カタ
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差出・作成者(ローマ字)
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Onikki kata
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宛所
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宛所(カナ)
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宛所(ローマ字)
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書写者
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書写者(カナ)
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書写者(ローマ字)
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作成年
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元禄6年(1693)12月
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作成年終
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数量
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1冊
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形状
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寸法
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寸法(縦)
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29.5cm
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寸法(横)
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19cm
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材質
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形態に関する注記
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保存状況
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縮尺
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その他の注記
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写
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言語
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日本語
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ISBN
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ISSN
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主題
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主題(カナ)
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主題(ローマ字)
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関連する地域・場所
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関連する地域・場所(カナ)
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関連する地域・場所(ローマ字)
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関連する人物・団体
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野本 道玄
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関連する人物・団体(カナ)
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ノモト ドウゲン
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関連する人物・団体(ローマ字)
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Nomoto Dogen
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内容年
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1693
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内容年終
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内容
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内容(カナ)
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内容(ローマ字)
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解題・説明
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ここにみる「弘前藩庁日記(ひろさきはんちょうにっき)」は、弘前藩の御日記方(おにっきかた)が編集・清書した藩の公式職務日誌で、弘前城中で記載された国許の記録と、江戸屋敷(上屋敷)の記録があり、それぞれを「御国日記(国日記とも)」「江戸日記」と称している。 「江戸日記」の記載期間は寛文8年(1668)5月11日の藩主津軽信政(つがるのぶまさ)(1646~1710)の江戸到着より慶応4年(1868)2月晦日まで総数1218冊が残存している。国許への連絡、幕府との交渉事項、藩主の交際、江戸における他藩との連絡などを主たる内容とする。 リンクされている画像には「江戸日記」元禄6年(1695)12月の巻をすべて掲載しているが、ここでは特に12月18日条の茶人野本道玄(のもとどうげん)(1655~1714)の召し抱え記事に注目しておきたい。 道玄は京都生まれで、姓は野元、名は道元とも書く。号を道玄・一樹庵・穏田・穏田子・里木予一という。父は、豊臣秀吉の正室北政所(きたのまんどころ)の甥で、豊臣政権下において若狭小浜後瀬山城(現福井県小浜市)の城主、関ヶ原合戦後には隠棲して歌人長嘯子(ちょうしょうし)としても知られた木下勝俊(きのしたかつとし)(1569~1649)だとされている。道玄は勝俊の14男だというが、勝俊と道玄の生没年からみれば、その伝には疑念が生じる。幼少より聡明で学問を好んだといい、のち、京都の法華寺門前に住み、経文・仏書を会得した。のち茶道を志し、千利休(せんのりきゅう)によって大成・洗練される以前の古式の茶道である「古義茶道」を伝える京都の一樹庵野本家の養子となって同家を継ぎ、四世一樹庵となった。 元禄6年12月18日条の記事から、道玄の津軽家召し抱えに関する諸条件と、その背景を知ることができる。まず道玄の召し抱えには、時の家老で、藩主信政が傾倒した山鹿素行(やまがそこう)の娘婿でもある津軽将監政実(つがるしょうげんまさざね)の仲介があり、道玄に対する他家からの招聘がなかったため、津軽家で召し抱えることに支障はなく、召し抱えが決定したことが明らかとなる。道玄に宛がわれる知行(ちぎょう)は150石とされたが、領内不作のため、知行分を蔵米(くらまい)から支給される形を取らず、蔵米を年間1人1日5合の日割りで支給する扶持方で支給し、「合力(ごうりき)」分を手当てすることになった。さらに、家中における格式は、藩医(はんい)と同等の扱いの「医者並」という待遇とされた。また、道中における人馬継立(じんばつぎたて)の費用は藩から支給され、公用旅行と同等の扱いを受けることになった。そして、信政が都合のよい折に初御目見(おめみえ)を行うよう申し入れることも決まった。道玄の職務は、国許・江戸いずれの勤めについても信政の「御意次第」とされ、また扶養すべき家族がいるうちは、通年または半年ずつ京都に居住することを許されてもいる。 一方、道玄からも津軽家に対して召し抱えにあたって諸条件が提示されている。まず、4歳になる息子に、実家の姓を継がせて表小姓として召し出されること、また、茶道伝授については、津軽家の流派であると否とにかかわらず、自身の古義茶道を伝授すること、さらに召し抱えについて決定した際には水戸(現茨城県水戸市)に赴き、元禄3年(1690)の隠居後領内に居住する「黄門様」こと徳川光圀(とくがわみつくに)(1628~1700)に召し抱えに関して申し入れること、以上、申し出のあった3点を津軽家では了解事項とした。 道玄の仕官に尽力した津軽政実は、延宝9年(1681)に津軽家へ召し抱えられる以前、備後三次(みよし)(現広島県三次市)藩主浅野長治(あさのながはる)(1614~1675)の家臣であった。実は道玄も長治の養子、三次藩主浅野長照(あさのながてる)(1652~1705)に仕えていたことが「江戸日記」の記事中に記されている。道玄がいつの時点から三次藩に仕えていたか不明だが、同じ藩に仕えていた道玄と政実の両者間に、弘前藩仕官前、何らかの関係が生じていた可能性がある。また、仕官を報告するため水戸に赴くことが認められるほど、徳川光圀と道玄も深い関係を有していたことも明らかである。 茶人として弘前藩に仕えることになった道玄ではあるが、仕官後の活動で特に有名なのは、殖産興業政策の推進者としての顔である。なかでも、養蚕の奨励と、生産された絹糸を用いた織物の製品化に尽力したことが知られている。 「津軽旧記伝」四や「津軽古今農商一貫記」(いずれも東京大学史料編纂所蔵)では、元禄3年(1690)に藩が近習田浦四郎右衛門を御用掛、道玄を棟梁として織座を設立、織物職人高森太郎兵衛を京都より招聘し絹織物を生産したとしているが、元禄3年は道玄の仕官前であり、この記述には疑問がある。 「御国日記」、また広田組(ひろたぐみ)湊村(みなとむら)(現五所川原市湊)肝入や代官所の手代を務めた平山家の記録「津軽年代記」三乾(「平山日記」、東京大学史料編纂所蔵)などによれば、道玄の仲介で、元禄12年(1699)には京都から織師の欲賀庄三郎・富郷次郎右衛門、さらに翌元禄13年には職人男女12人が招聘された。藩では城下元寺町(もとてらまち)(現弘前市元寺町)に彼らを居住させ、織物生産を始めた。 元禄14年2月27日付で領内に向けて触れだされた書付によれば、繊維産業の奨励は元禄8年(1695)年に領内で発生した「元禄の大飢饉」を契機とするものであった。飢饉以来困窮する領民たちへの賑救策として、京都から呼び寄せた職人たちに、希望者に対する織り方の伝習を命じた。さらに、①紅花やからむしといった織物に必要な原料を蓄えた者に対しては、会所が仕入れその代銭の支払いをうけることが可能であること、②希望者は入用な機織などの道具書付を会所に差し出すこと、③織物が商売として成り立った時には会所まで製品を持参して代銭を受け取ること、④糸・繭・からむし・紅花といった織物の原料を売却するものも会所に持参し代金を受け取ること、⑤他国商人と内々に申し合わせ売却を企図したものは処罰すること、⑥遠方のため会所へ織物や売り物を搬送するのが困難な場合には、村の庄屋から会所に通知して売却を委託すること、⑦養蚕のための桑畑が必要な際は土地を見立てて、書付にて会所へ申告し利用を許可すること、⑧絹布の類、織物については計量を行い、会所の証印を得たのちに売買すること、⑨絹織物の内紬以上、布地では木平以上の高級品について証印のないものの売買を禁じること、⑩織りの技術を習得しても収入がなく生活を営むのが困難な場合には会所に相談することもあわせて命じられた。藩による繊維産業の奨励と、原料・製品の独占的買い付けの実施は、藩の利益を得ることを目的とする専売制への指向が見て取れるものである。 同年以降、織物の売買取引や糸取り場、織場を備えた織物会所(織座)が紺屋町(こんやまち)(現弘前市紺屋町、現在聖母修道院・明の星幼稚園がある地)に移り、これとは別に石渡村(いしわたりむら)(現弘前市石渡・石渡1~3丁目)には職人たちが居住し作業を行う織場所、久渡寺山(くどじやま)の北麓に、蚕の餌となる桑を安定供給するため、織物会所が管理する桑畑が設けられた。のちこの地は道玄にちなみ野元村(のもとむら)(現弘前市小沢(こざわ))と名付けられている。さらに道玄は、元禄14年に養蚕手引書である『蚕飼養法記(こがいようほうき)』(市立弘前図書館蔵)を著し、京都において版行した。同17年から織物会所から領内に向けて同書を頒布したり、1村に1冊ずつ配布を行ったりすることを通じて、養蚕技術の指導にも一役買っている。 しかし、「津軽年代記」では、養蚕奨励策が「農事障り相成申候」と記されている。飢饉からの賑救策として行われたはずの方策が、在村においては、従来行われてきた農作業の妨げにつながるものとして認識されていたようである。 一方、「津軽古今農商一貫記」(東京大学史料編纂所蔵)では、道玄が城南富田村ならびに土手町裏(のちの紙漉町)に楮を植え付け、職人を招聘して紙漉きを始めたと記しているが、道玄が藩に召し抱えられる前の延宝5年(1677)に作成された「弘前惣御絵図」にはすでに紙漉町が町割されており、道玄招聘前から同地で紙漉きが行われていたことになる。 道玄には、『蚕飼養法記』のほか。『杉楊枝』『茶教字実方鑑』『生花投入問答』『穏田語類』『濃茶全書』『数奇茶道承統』『数奇道大意』『茶教一源』『茶考』『茶術行用記』などの著書がある。多芸な道玄は貞昌寺(ていしょうじ)(現同市新寺町)・本行寺(ほんぎょうじ)(現同市新寺町(しんてらまち))・梅林寺(ばいりんじ)(現同市西茂森町1丁目)・報恩寺(ほうおんじ)(現同市新寺町)の築庭を行い、また津軽領内の獅子舞普及に一役買ったという逸話も残しているが、伝説的な存在となっている道玄について、今後、確実な史料からその実相に迫る必要があるだろう。 道玄は、正徳4年10月5日、弘前で死去し、本行寺に葬られた。法名は立行院道源日首居士という。(千葉一大) 【参考文献】 浅野源吾編纂『東北産業経済史 第5巻 津軽藩史』(東洋書院、1976年) 宮川慎一郎「野本道玄─津軽に養蚕の基礎を築いた文化人(弘前)」(社団法人農山漁村文化協会企画・発行『全国の伝承 江戸日記 人づくり風土記 聞き書きによる知恵シリーズ (2) ふるさとの人と知恵 青森』1992年、305~310頁) 市古貞次・堤精二・大曾根章介・堀内秀晃・益田宗・篠原昭二・久保田淳・揖斐高・市古夏生編『国書人名辞典』第3巻(岩波書店、1996年)652頁。 『日本農書全集 47 特産3 蚕飼養法記・養蚕規範・蚕茶楮書・製茶図解・樹芸愚意』(社団法人農山漁村文化協会、1997年)
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野本道玄召し抱えの江戸日記記事(『新編弘前市史』通史編2(近世1) 第3章第一節)
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